こんにちは。茨城県水戸市周辺で骨董品や古美術品の査定・買取を行っている買取専門店『くらや水戸駅前店』です。遺品整理で価値の分からない陶磁器を見つけた方、木箱に入った古い壺や花瓶の処分にお困りの方は、プロの鑑定士がいる『くらや水戸駅前店』で査定してみませんか?
本日は、水戸市内のお客様よりご売却いただいた骨董品をご紹介しましょう。冒頭の写真に写っているのは、九谷焼・有田焼・色鍋島・薩摩焼の花瓶、信楽焼の花生、湯飲み、菓子鉢などです。
ご依頼主は、亡くなられた御母様の遺品整理中だという50代女性のお客様。「お花を習っていたわけではないのだけど、母は季節ごとの花を生けるのが好きだったんです。知人から贈答品としてもらうことも多くて、いつの間にか花瓶ばかりが増えてしまった」とお話しされていました。
「使わないのにずっと仕舞っておくのもな…と思って処分を決めたのだけど、母が大切にしていたものだから捨てられなくて。たくさんあるからお店にも持っていけなくて、困っている」とご相談を受け、後日当店の鑑定士がご自宅へお伺いすることになりました。
出張買取当日。生前に御母様が使われていたという一室へ案内いただき、押し入れに詰め込まれていた木箱の中身をひとつひとつ確認していきました。有名作家が手掛けた陶磁器も幾つか見つかり、どれも御母様が大切にされていたことが一目瞭然でした。
当初は「こんな古い物に値段をつけてもらえるのかしら…」と不安なご様子でしたが、お出しした査定額にお客様も大変納得されたようで、「捨ててしまおうか悩んだけれど、プロの方に相談してよかった!」と嬉しいお言葉をいただきました。
ご実家の蔵、倉庫、物置、押し入れに仕舞ったまま埃を被っている骨董品。持ち主や購入された方がご自身でない場合、その作品にどんな価値が宿っているのか分からない、という方も多いことでしょう。
先の買取エピソードのお客様も、御母様から「九谷焼と有田焼の花瓶は高いものだよ」としか聞かされておらず、どれほどの価値があるのかは査定に出すまで全くご存知なかったようです。〈買取〉という選択肢を知らなければ、「燃えないごみの日に捨ててしまったかもしれない…」と仰っていました。
骨董品、引き出物、贈答品の処分にお困りの方は、処分する前に一度『くらや水戸駅前店』へお問い合わせください!骨董品に関する専門知識を持ったプロの鑑定士が、しっかりと価値を見極め高価買取いたします。
今回は、冒頭の買取エピソードにも登場した〈九谷焼〉と〈有田焼〉についてご紹介していきたいと思います。高評価が期待できる有名作家も挙げていきますので、九谷焼・有田焼の壺や花瓶の売却を検討されている方は必見!是非最後までお付き合いください。
まずは、石川県加賀市周辺でつくられている〈九谷焼〉のお話から。江戸時代初期の1655年頃、加賀藩の命により肥前有田で製陶を学んだ陶芸家・後藤才次郎(ごとうさいじろう)が、九谷村(現在の加賀市山中温泉九谷町)で開窯したのがその歴史の始まりと言われています。
九谷焼の歴史を、古九谷・再興期・近代以降の3つの時期に分けて説明していきましょう。〈古九谷〉は創始期(1655年頃~1700年代初頭)に生産されていた陶磁器で、鮮やかな色彩と大胆な絵付けが特徴です。僅か50年あまりで突如廃窯となりましたが、その理由は今も分かっていません。
再興期(1800年頃~1870年頃)は、古九谷の復活に向けて大々的に九谷焼の窯々が興った時期です。後に九谷焼の定番となる絵付け技法を生んだ〈春日山窯〉〈吉田屋窯〉〈宮本屋窯〉〈小野窯〉などが築かれ、この時代の九谷焼は〈再興九谷〉と呼ばれるようになりました。
近代以降(1870年頃~現在)は、海外への輸出も盛んに行われました。この流れの大きなきっかけは、1873(明治6)年に開催されたウィーン万国博覧会です。絢爛な九谷焼の作品は西洋人から高く評価され、〈ジャパン・クタニ〉としてその名を世界に轟かせました。
金彩を多用した〈色絵金襴手〉、赤色を使わない〈青九谷〉、赤絵金彩を多用した〈赤九谷〉、明治以降に一世を風靡し〈庄三風〉など、多様な画風が存在するのも九谷焼の面白いところ。現代においても新たな表現が模索されており、今後もさらなる発展が期待されます。
さて、ここからは九谷焼の代表的な作家についてご紹介していきましょう。『くらや水戸駅前店』では、以下に挙げる有名作家が手掛けた九谷焼の作品を多数高価買取しております。査定鑑定は、当店に在籍するプロの鑑定士にお任せください!
昭和を代表する九谷焼の陶工・三代徳田八十吉は、1933(昭和8)年に石川県小松市で生まれました。二代八十吉のもとで修行し、55歳の時に三代を襲名。重要無形文化財〈彩釉磁器〉の保持者(人間国宝)に認定されたのは、1997(平成9)年のことでした。
三代徳田八十吉が手掛けた作品の魅力は、なんといっても〈グラデーション〉にあると言えます。従来の九谷焼のように絵柄を描くのではなく、色の配色のみで作品を仕上げる〈彩釉〉の技法を考案し、約70もの色の濃淡を使い分け作品をつくり上げるのだそうです。
三代徳田八十吉の作品は、1000℃前後という高温で焼成されているのもポイント。一般的に上絵の焼成温度は900℃前後と言われていますが、それより100℃近く高いのです。高温で焼き上げると深い色味が出せるらしく、作品に重厚感や高級感といったものを与えます。
大胆な構図と色彩で見る者を圧倒する三代目徳田八十吉の作品は、日本の伝統工芸品でありながら現代的な感性も兼ね備えた、世界に誇る芸術作品として高く評価されています。
吉田美統(本名:吉田稔)は、1932(昭和7)年に石川県小松市で誕生した日本を代表する陶芸家です。生家は作陶を生業としており、九谷焼独特の赤絵金襴手(きんらんで)を継承していました。
吉田美統は高校在学中から陶芸技法を学び始め、卒業後19歳の頃に家業である錦山窯の三代を襲名。九谷の伝統的な絵付け等の技法を習得し、その後従来の九谷焼にはない新しい表現を模索し始めました。
その結果、金箔の薄箔・厚箔を使い遠近感を出す手法が確立されます。これが〈釉裏金彩〉(ゆうりきんさい)という技法で、吉田美統はその第一人者なのです。1970(昭和45)年開催の日本万国博覧会では、石川県の代表として〈百人一首大花瓶〉を出品。実績を重ね、2001(平成13)年、69歳の時に人間国宝に選ばれました。
落ち着いた品格のある美しさで、吉田美統の作品は海外からも高く評価されているようです。アメリカの美術館やイタリアの展覧会で作品が展示されるなど、世界を股にかけ活躍しているため、二次流通の市場においても高い需要を誇ります。
中田一於(なかたかずお)は石川県小松市出身の陶芸家で、九谷焼で色絵を生業とする名窯に生まれました。家業を通して陶技を習得していましたが、高校卒業後は三代徳田八十吉に師事。25歳で独立した後は、釉裏銀彩の技法に独自の工夫を加え、新しい表現を追求してきました。
中田一於といえば、やはり〈釉裏銀彩〉でしょう。釉裏銀彩(ゆうりぎんさい)とは、磁器の生地に銀箔を様々な文様に切り貼りし焼成を繰り返す技法です。中田一於の作品は、薄い銀箔を器面に貼り、その上に透明釉をかけて焼き上げることで、繊細で優美な模様を表現しています。
銀箔を駆使し、花や鳥などの自然美が柔らかなタッチで描かれる中田一於の作品は、二次流通の市場においても大変人気です。中田一於が手掛けた花瓶や茶碗をお持ちの方は、一度『くらや水戸駅前店』で査定してみませんか?
佐賀県有田町周辺でつくられる〈有田焼〉は、日本で最も歴史のある陶磁器のひとつです。有田焼の始まりは16世紀末。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、武将・鍋島直茂が連れ帰った陶工(李参平)が有田町泉山で磁器原料の陶石を発見したのがきっかけと言われています。
よく聞く〈古伊万里〉とは、大まかに言えば有田焼の古いもので、江戸幕府が終焉を迎える1800年代半ば頃までに製造されていたものを指します。古伊万里の優れた品質と美しさは海外からも高く評価され、東南アジアやヨーロッパへ大量に輸出されました。
この頃の有田焼は、〈古伊万里〉〈柿右衛門〉〈鍋島〉の三様式に大別されます。鍋島様式は、鍋島藩直営の御用窯で厳しい管理下のもと製造された献上品です。採算度外視でつくられた献上鍋島焼の高台には、櫛歯文様(櫛の歯でつけたような平行する線)が見られます。
赤・黄・緑の三色で鮮やかに彩色されたものは〈色鍋島〉と呼ばれ、鍋島様式に見られる絵付けの中で最も評価が高いとされています。明治期以降これを継承してきたのが、鍋島藩の御用赤絵屋を務めていた〈今泉今右衛門〉家です。十二代・十三代・十四代今泉今右衛門の作品は、二次流通の市場において大変需要があります。
〈酒井田柿右衛門〉によって考案された柿右衛門様式は、余白たっぶりの色絵が特徴的。素地が米の研ぎ汁のような温かみを持つ白さであることから〈濁手〉と呼ばれています。十三代・十四代酒井田柿右衛門が手掛けた作品は非常に人気があり、『くらや水戸駅前店』でも高価買取実績が多数ございます。
このほか、〈井上萬二〉〈初代奥川忠右衛門〉〈青木龍山〉といった有名陶芸家の作品は高評価が期待できるでしょう。
日本を代表する陶芸家〈井上萬二〉。佐賀県有田市出身、1929(昭和4)年生まれ。17歳の時から柿右衛門窯で修業を積み、有田焼の伝統技術を守りながら編み出した独自の作風で高い評価を得ています。90歳を超えた現在もなお、現役で制作を続けているようです。
井上萬二といえばやはり〈白磁〉でしょう。真っ白な磁肌を魅せる井上萬二の作品は、長い歴史を持つ有田焼の中でも唯一無二の存在。シンプルであるのに多くの人の心を惹きつけるのは、その造形の美しさゆえと言えるでしょう。
加飾に頼らず、柔らかく滑らかな造形で表現する凛とした作品の風格は、卓越したろくろ技術から生み出されます。〈形そのものが文様〉という万事徹底した美意識が高く評価され、1995(平成7)年には人間国宝にも認定されました。
有田焼大物成形ろくろ師である初代奥川忠右衛門は、大正から昭和にかけて活躍した陶芸家です。1964(昭和39)年に国選択無形文化財保持者に指定され、現在は自身の息子が二代目を襲名しその技術と家系を継承しています。
初代奥川忠右衛門は、生涯蹴りろくろしか用いなかったという拘りの持ち主。弟子がろくろを回す際に少しでもタイミングを間違えると、容赦なく罵声や手が飛んできたのだとか…。
先にご紹介した井上萬二も、初代奥川忠右衛門に師事した門下生のひとりです。修行を始めて7年目にして忠右衛門と出会い、初めて見る技術の高さに衝撃を受けた井上萬二は、ここでひたすらにろくろの技法を学びました。
1926(大正15)年佐賀県生まれの青木龍山(あおきりゅうざん)は、有田焼作家の中では少々異色とも言える陶芸家です。先述の通り、有田焼は白磁であることが主流ですが、青木龍山の作品は殆どが黒を基調としています。
鉄分の多い天目という釉薬を多用したことから、〈天目の龍山〉と呼ばれることも。本人曰く「黒が好きだから」という理由で作陶を続けていたようですが、白をベースとした有田焼作品の中でもひと際異彩を放ち、現代でも注目され続けています。
青木家は、16世紀後半から外尾山廟祖谷窯で代々窯元として生業を成してきた家系でしたが、青木龍山は個人作家として活動し、28歳の時に日展で初出展・初入選を果たしました。生涯弟子を取らず、妻と二人三脚で天目を作陶し続けたことでも知られます。
今回ご紹介したのはいずれも高額査定が期待できる著名な作家ですが、高評価となるポイントはそれぞれの作家によって異なります。作品の大きさ然り、文様の図柄、出来栄え、付属品の有無など、査定時には様々な角度から鑑定が行われます。
遺品整理で見つけた古い壺や花瓶。「どうやって処分しよう…」「いっそ捨ててしまおうか」と悩まれている方は、一度プロの鑑定士に見せてみませんか?蔵の片隅や押し入れの奥で埃を被っていた骨董品に、思わぬ価値が見出されるかもしれません。
お手持ちの九谷焼、有田焼作品の価値が段々と気になってきたという方は、是非『くらや水戸駅前店』へお問い合わせください!買取経験豊富な当店の鑑定士が、しっかりと価値を見極め高価買取いたします。査定だけのご依頼もお気軽にお申し付けください。
古い壺や花瓶、陶磁器などといった定価のない骨董品は、いくらインターネットで調べても正確な価値を測ることはできません。一般的な買取店ではその歴史的価値や美術性を評価できる鑑定士がおらず、せっかくのお宝が二束三文で買いたたかれてしまうことも…。
「亡くなった祖父から高い物だとは聞いていたけど、実際どうなの?」など、価値が気になる骨董品をお持ちの方は一度『くらや水戸駅前店』で査定してみませんか?当店に在籍する買取経験豊富なプロの鑑定士が、正しい価値を見極め高価買取いたします。
「査定してほしいものがたくさんある」「遺品整理中の部屋から価値あるものを全部見つけてほしい」という方へは、〈出張買取〉がお勧めです。『くらや水戸駅前店』の出張買取サービスはリピーターの方も多く利用されています。ご興味のある方は、まずはお電話にてご相談ください。
査定・相談・出張費用は全て無料です。お客様のご来店・お電話を、心よりお待ちしております。
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店舗: くらや 水戸駅前店
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電話: 029-291-7292
営業時間:10:00~18:00
定休日:水曜日