
もくじ
ご実家の片付けや遺品整理をきっかけに、「長年飾っていた絵画を見てほしい」「作者が分からない作品があるので価値を知りたい」といったご相談をいただく機会が増えています。
愛媛県松山市のイオンスタイル松山3階にある買取専門店 くらや 松山店では、日本画や洋画、版画をはじめ、掛軸、骨董品、美術品など幅広いジャンルの店頭買取・出張買取を行っております。八幡浜市をはじめ、愛媛県内各地からも、美術品に関するさまざまなご相談をいただいております。
今回ご紹介するのは、八幡浜市にお住まいのお客様からいただいた、絵画の出張買取エピソードです。
お客様からは、
「叔母が住んでいた家を片付けることになったのですが、飾ってある絵画や箱にしまったままの作品が何点かあります。私たちには作者も価値も分からないので、一度見に来てもらえませんか。」
と、お電話でご相談をいただきました。
本ブログでは、今回の出張買取で見つかった「林喜市郎」にスポットを当ててご紹介していこうと思います。
次章では、林喜市郎がどのような画家で、なぜ日本各地の茅葺き民家や農村風景を描き続けたのか、その生涯や作品の魅力について詳しくご紹介いたします。
今回の出張買取で拝見した作品を描いた林喜市郎(はやし きいちろう)は、1919年(大正8年)、千葉県野田市に生まれた洋画家です。茅葺き屋根の民家や山間の集落、田畑が広がる農村など、昔ながらの日本の風景を生涯にわたって描き続けました。
林喜市郎の経歴をたどると、画家として本格的に活動するまでに、戦争によって大きく左右された人生を送ったことが分かります。
1946年(昭和21年)にはシベリア抑留を経験し、終戦後もすぐに日本へ戻ることができませんでした。厳しい抑留生活を経て、1950年(昭和25年)に帰国。その後、全国各地に残る民家を訪ねながら、絵画の制作に取り組むようになります。林喜市郎が31歳頃のことです。
林喜市郎が主な題材としたのは、都市の華やかな風景や名所旧跡ではありません。山あいに建つ茅葺き屋根の家、集落へと続く細い道、民家の周囲に広がる田畑、背後に連なる山々など、人々の日々の暮らしと結び付いた風景でした。
現在では茅葺き屋根を見る機会も少なくなりましたが、かつては日本各地の農村や山村で広く見られました。しかし、戦後の生活様式の変化や住宅の建て替えが進むにつれて、昔ながらの民家や集落は次第に姿を消していきます。
林喜市郎は、そうした変化の中にあった日本各地を歩き、自らの目で見た民家を繰り返し描きました。帰国後は、日本各地に残る民家を訪ね歩きながら制作を始めたとされています。単に想像の中で昔の日本を描いたのではなく、実際に各地へ足を運び、現地で取材や写生を重ねていたことが、林喜市郎の制作活動の大きな特徴です。
写生旅行では、一つの土地に十日ほど滞在し、同じ農家や集落を異なる角度から観察して、複数の作品へ描くこともあったと伝えられています。移動中に気になる民家を見つけると、その場で立ち止まってスケッチをすることもあったようです。こうした地道な取材を繰り返したからこそ、建物の形だけでなく、その周囲にある道や田畑、木々、山並みまで具体的に描くことができたのでしょう。
1968年(昭和43年)には、写生会を通じて画商の寺西進三郎と出会い、その才能を見いだされたとされており、林喜市郎の転機となります。この出会い以降も長年にわたって取材旅行を重ね、失われつつあった民家や集落を作品として残していきました。林喜市郎の民家を描いた作品群は、後に「失われた民家百景」と呼ばれるようになります。
林喜市郎の作品には、特定の季節や土地の空気まで伝わってくるような細かな描写が見られます。
春の作品では、民家の周囲に芽吹く草木ややわらかな空の色が描かれ、夏には深い緑に囲まれた集落が登場します。秋には色づいた木々や収穫期の田畑、冬には雪をかぶった茅葺き屋根や山村など、同じ民家という題材であっても、季節によって異なる表情が描き分けられています。
画家としての活動が広く知られるようになったきっかけの一つが、1970年(昭和45年)の全国勤労者美術展都知事賞の受賞です。翌1971年には一水会へ入選し、その後も複数回入選しています。
1973年(昭和48年)にはブロードウェイギャラリーで第1回個展を開催。1975年には日伯現代美術展へ入選し、ブラジル展の選抜作品にも選ばれました。
その後は百貨店を中心に個展を重ね、1978年に松坂屋名古屋本店、1984年に松坂屋上野店、1986年に池袋の東武百貨店、1991年には東急百貨店渋谷本店で作品を発表しています。松坂屋名古屋本店や上野店では、その後も複数回にわたって個展が開催されました。晩年の1999年には地元千葉県の柏そごうでも個展が開催されています。
画壇での入選歴だけでなく、各地の百貨店で継続して作品が紹介されたことも、林喜市郎の絵が多くの家庭で親しまれるようになった理由の一つでしょう。百貨店で開催された個展や美術展で作品を見て、そのどこか懐かしい風景に引かれ、購入された方も少なくなかったと考えられます。
林喜市郎は、1999年(平成11年)11月に80歳で亡くなりました。1950年に帰国して民家を描き始めてから、およそ半世紀にわたり、日本各地に残る風景と向き合い続けました。
華やかさを前面に出すのではなく、自ら全国各地を訪ね、失われていく民家と周囲の風景を描き続けた林喜市郎。長年にわたって題材を変えず、一つのテーマと向き合い続けた姿勢にも、林喜市郎の人物像が表れています。
今回拝見した作品にも、そのような林喜市郎の思いや画風がよく表れていました。
後日、お客様のご都合に合わせて、叔母様がお住まいだった八幡浜市のご自宅へお伺いしました。
応接間や和室には数点の絵画が飾られており、そのほかにも押し入れにはタトウ箱に入った絵画や版画が大切に保管されていました。
お客様にお話を伺うと、
「叔母は美術展がとても好きでした。また、百貨店で開催される個展にもよく足を運んでいました。気に入った作品があると購入して、自宅へ飾って楽しんでいたようです。」
とのことでした。
実際に作品を一点ずつ拝見していくと、油彩や版画などさまざまな絵画があり、その中の一枚が林喜市郎の油彩画でした。
作品には、茅葺き屋根の民家を中心とした穏やかな農村風景が描かれており、林喜市郎らしい作風がよく表れていました。
民家へと続く道や周囲の木々、背景の山並みまで丁寧に描き込まれており、派手さはありませんが、どこか懐かしさを感じさせる温かみのある作品です。
作品についてご説明すると、
「叔母がこの絵を気に入っていた理由が、少し分かった気がします。」
お客様はそのように話してくださいました。
林喜市郎は、日本各地に残る民家や農村風景を数多く描いた画家であり、百貨店で個展を開催し、多くの作品を発表しました。そのため、美術展へ足を運ぶことがお好きだった叔母様が、この作品と出会われたことも十分考えられます。
額装の状態を確認すると、大きな傷みは見られず、作品自体の保存状態も良好でした。キャンバスにも目立った劣化はなく、長年大切に飾られていたことが伝わってきました。
林喜市郎の作品だけでなく、その他の油彩や版画についても、それぞれ作者や技法、保存状態などを一点ずつ確認しながらご説明させていただきました。
お客様は、
「叔母からは絵画の事について何も聞いてなくて、作者のことなど何もわかりませんでした。今回、一枚ずつ確認してもらえて安心しました。」
とお話しくださり、作品についてご理解いただいたうえで、無事に成約となりました。
絵画は、作者の名前だけではなく、その作品がどのような背景で制作されたのかを知ることで、見え方が大きく変わることがあります。
今回の林喜市郎の作品も、画家としての歩みや、日本各地の民家を描き続けた制作活動を知ったうえで拝見すると、一枚の風景画というだけではなく、日本の原風景を記録しようとした画家の思いまで感じられます。
そのようなお話も交えながらご説明し、お客様にも作品への理解を深めていただけたことで、印象に残る出張買取となりました。
今回ご紹介した林喜市郎のように、一般にはあまり知られていない画家であっても、美術市場で評価されている作品や、現在もコレクターから求められている作品は数多くあります。
「有名な画家ではないから価値はないだろう。」
「古い絵だから処分するしかない。」
そのように思われている作品の中にも、思いがけない評価につながるものが見つかることは決して珍しくありません。
また、絵画の価値は作品の出来栄えや制作年代、保存状態、付属品の有無、市場での需要など、さまざまな要素を総合的に確認して評価します。
作者が分からない作品やサインが読めない作品であっても、鑑定士が一点ずつ丁寧に拝見し、評価しますので、ご安心ください。
買取専門店 くらや 松山店では、洋画、日本画、版画のほか、掛軸、骨董品、美術品、茶道具、陶磁器など、幅広いジャンルの店頭買取・出張買取を行っております。
八幡浜市をはじめ、愛媛県内各地への出張買取にも対応しておりますので、ご実家の片付けや遺品整理、生前整理などで絵画や美術品の整理をご検討の際は、お気軽にご相談ください。
「飾ったままになっている絵画がある。」
「箱にしまったままの作品が何点も残っている。」
「作者が分からず、そのまま保管している。」
このようなお悩みをお持ちの方も、ぜひ一度、買取専門店 くらや 松山店へご相談ください。
大切に受け継がれてきた絵画を、次に必要とされる方へ橋渡しするお手伝いをさせていただきます。