- 掛け軸・絵画松戸店2023/09/25
骨董品・美術品、遺品整理の高価買取
こんにちは。着物や装飾小物・着付け小物の買取を行っている買取専門店『くらや松戸店』です。着物を着る機会が少なくなり、日本独自の文化が薄れつつある昨今。日本固有の民族服である着物は、これからも世界に発信されていく日本の伝統文化のひとつであると言えます。
しかし一方で、着物がどのようにして誕生したのか、その歴史をご存じの方は少ないのではないでしょうか?そこで今回は、着物の歴史をはじめ、買取の際のポイントなども併せてご紹介していきたいと思います。
諸説あるのですが、着物の起源は遡ること弥生時代。稲作の技術などが朝鮮半島から伝わるのと同時に、布を織る技術も日本へ伝えられました。布を織るのに用いられていた糸は、大麻(クワ科)やカラムシ(イラクサ科)などの植物を栽培して得られる〈植物性繊維〉が主でした。
この時代の遺跡からは〈機織り〉も見つかっており、既に織物や布は人々の生活必需品として扱われていたことが分かります。男性はそれを体に巻き付けるスタイル、女性はその布に穴をあけ頭から被るスタイルが着物の起源になったのだとか。
飛鳥・奈良時代に入ると、布の素材も格段に良くなりました。この頃に中国大陸から伝わったとされているのが、蚕の繭から紡いだ〈絹糸〉を用いた織物の技術。生産量が少なく希少だったことから、絹糸の織物を着ることが出来たのは身分の高い公家や僧侶のみでした。
労働の必要が無かった身分が高い人々は、手足が隠れ動きにくい衣服を身に纏うことで「労働する意思がない」ことを示していたのだそう。一方労働を課せられる身分が低い人々は、手足が出て動きやすい衣服を着るようになっていきました。この手足が出ている衣服が〈小袖〉と呼ばれるもので、現在の着物の原型となったのです。
小袖は身分の高い人の下着の様なものでしたが、それが広く一般庶民に浸透していくこととなります。着物の着方に関しては、それまで決まりは存在しませんでした。ところが奈良時代に入り、時の元正天皇が〈衣服令〉(719年)を発令したことがきっかけで、右前の衿合わせが定着するようになります。
機織りの技術が発展し、織の文様が出来る様になった平安時代。この時代が舞台である〈源氏物語〉などを思い浮かべると、当時の人々が着用していた着物のイメージが湧くのではないでしょうか?
〈着物〉という言葉が生まれたのは、実は鎌倉・室町時代になってからのことです。戦国時代の始まりと同時に武家社会が誕生すると、弱体化した公家が着ていた〈大袖〉を武家も着るようになりました。武家たちが大袖を身に着けたのは、特別な儀式などにおける権威づけのためだったようです。
商人や職人たちも絹地の小袖を着るようになり、武家たちが普段着として着ていた小袖にも袖や袂が付けられるなど、変化が見られるようになります。西陣織が発展を遂げ、呉服屋なども誕生し、着物文化が広く発展していった時代だったと言えるでしょう。
女性用の着物に多彩な絵柄がつき、華やかになっていったのは江戸時代です。より現代の着物の着こなしに近づき、お金をかけるようになっていったのがこの時代の特徴とも言えます。例えば、着崩れ防止のための〈帯締め〉などは、実用性だけでなく装飾性を兼ねたものの需要が高まっていったのです。
この頃には、京都の扇絵師である〈宮崎友禅斎〉の絵が人気を集めます。友禅斎の人気に肖り、ある呉服屋が小袖のデザインを依頼したことが〈友禅染〉の始まりだそうです。友禅染については、後ほど詳しくご説明していきたいと思います。
鎖国政策が行われ、国産の絹の価値が高騰してしまった江戸時代後期。この頃の一般庶民はというと、縮緬(ちりめん)を着用している人が多くいました。縮緬とは絹を平織りにして作ったものを指し、比較的安価な織物でした。
縮緬は友禅の人気とともに庶民に広がったのですが、天明の飢饉により今度は幕府が絹の着用を禁止してしまいます。すると庶民は、麻や木綿製の着物を、端切れなどを使って補修しながら大切に着るようになったのだそうです。
安政元年、ペリーが再来航し鎖国が廃止となると、西洋文化が日本に浸透し始めます。幕末を迎える頃に発注された軍服などは、西洋式のものでした。
明治時代に入ると、鎖国によって衰退していた貿易が再始動します。さらに優れた蚕品種の開発や技術開発が行われた結果、明治42年(1909年)に日本はとうとう世界一の生糸輸出国となったのです。
しかし、高価な洋服が浸透しない状況が続いたことと、日本国民に深く根付いた美意識などから、一般庶民の間では着物の生活様式が守られ続けました。
ところが戦時中になると一転、絵紋様・刺繍・金銀糸を使った着物は贅沢品と見做され、禁止されてしまうことに。この時代に国民服として推奨されたのが〈洋服〉でした。
洋服は、空襲の際などに動きやすいとして一般庶民に浸透していきました。着物地などを使って作られた〈もんぺ〉などは、テレビドラマなどで見る機会もありますよね。
着用を禁じられていた華やかな着物が、普段着として再び着られるようになったのは戦後のことです。しかしこの頃にはもう洋服の人気と需要が強まっており、着物は高価な上に着付けが煩わしいとされ、徐々に普段着としての役割を失ってしまいました。
しかしながら衰退を見せても尚、着物は日本には欠かせない文化のひとつです。お宮参りや七五三、卒業式、結婚式などの人生の節目に登場し、皆さんも日常的に感じる場面はまだまだ多いのではないでしょうか?また茶道や華道、日本舞踊などにおいては、着物は欠かすことのできない衣装です。
着物の歴史についてお話ししている中で登場した〈友禅染〉。絵画的な染め物は古くから大変人気があり、友禅染は日本の伝統的な染色技法の一つです。ここからは、友禅染の特徴や地域別の違いなどと中心にお話ししていきたいと思います。
先述したように、京友禅が京都に広がったのは17世紀後半のエゴ時代に入ってからのことです。当時扇絵師として既に京都で名を馳せていた〈宮崎友禅斎〉が描いた斬新な絵柄を、着物に染めたことが始まりとされています。
〈友禅〉は産地によって呼び名が変わり、〈京友禅〉〈加賀友禅〉〈東京友禅〉が日本の三大友禅として有名です。
布の上に絵を描くように多彩な色を用いて表現する友禅技法は、花鳥風月や四季の草花などの図案が特徴的。主に京都で作られたものを〈京友禅〉、石川県金沢市で作られるものを〈加賀友禅〉など、産地によって作品の雰囲気や制作工程が異なってくるのです。
では、ここからは各地の友禅の特徴を挙げていきたいと思います。
水・波・雪・雲・月などといった〈自然文様〉をはじめ、平安貴族の衣装や調度品などの装飾に用いられた優美な織り文様〈有職文様〉を多く取り入れた雅なデザインが特徴的な京友禅。友禅染の元祖〈宮崎友禅斎〉が京都の扇絵師であったことや、染色に必要不可欠な豊かな水に恵まれた環境が、友禅の発展を支えました。
また、それぞれの技術に特化した職人が、分業しひとつの作品を作り上げるということも京友禅ならではでしょう。分業制を取り入れることで、刺繍・金銀箔・絞り染めなどを加えた華やかな作品ができあがります。
一人の作家による作品ではないため、落款がつかないことが多いのも京友禅の着物の特徴と言えるでしょう。
絵画的かつ写実的な草花や鳥などの自然文様が多く、力強くはっきりとした色彩が印象的な加賀友禅。<九谷焼>でも知られる加賀では、<加賀御国染>という伝統的な染色技術があったことも注目です。
加賀友禅の誕生は、江戸時代中期に宮崎友禅斎が京都から加賀に移住し、染色技術を伝えたことがきっかけなのだそう。京友禅が中心から外に向かって色をぼかすのに対し、加賀友禅は色を挿す際に周りから中心に向かって色をぼかすといった違いも見られます。
金銀箔や刺繍はなく、染色以外の技法が使われていないのも加賀友禅ならではの特徴です。また、京友禅のような分業制ではなく、構図・下絵・糸目置き・色挿しなど、制作過程のほとんどが一人の作家によって行われます。そのため落款が配されているもの、加賀友禅の大きなポイントです。
別名〈江戸友禅〉とも呼ばれる東京友禅は、当時の江戸の町人文化が色濃く反映されており、あっさりとした渋い色味が特徴と言えるでしょう。徳川家康により江戸幕府が開かれ、参勤交代で京都から多くの友禅染職人が江戸へ移住したこと、また隅田川や神田川といった豊富な水資源があったことで発展していきました。
東京友禅には、千鳥や磯松、釣り船などの海や川を基本とした実写的な風景が多く図案され、藍色・茶色・白色など落ち着いた色が使われることも大きな特徴です。また加賀友禅と同様、構図から仕上げまでの全行程を一貫して一人の作家が手掛けます。
友禅染は、すべてを手描きで行う〈手描き友禅〉が本来の形でした。ところが明治時代に入り化学染料がヨーロッパから導入されると、型紙を使用する〈型友禅〉が発明され、これにより量産が可能となりました。
基本的に〈手描き友禅〉が染までの全工程をすべて一人の職人が行うのに対し、〈型友禅〉は型職人という人達によって作られた型を基に、染めの職人が染め上げていく手法です。一般的には〈手書き友禅〉の方が〈型友禅〉より価格も高価になることが多いでしょう。
買取の場面において、お客様から様々なお話を聞く機会があり、買取をする側の私達にとっても感じることは多くあります。お祖母様やお母様の嫁入り道具のひとつであった着物や、曾祖母様が普段着ていた着物など、査定のお話だけでなくお客様ご家族の歴史を伺える機会があるのは幸いなことです。
とあるお客様のエピソードをひとつ。代々日本舞踊のお教室を開かれていたお客様だったのですが、時代の流れからお教室を閉めることになり、『くらや松戸店』で着物の売却のご相談を承ることになりました。
美しく見せることが重要な日本舞踊の着物は、春夏秋冬の四季に合わせた色柄の変化を織り混ぜるなど、常に美意識を追及しているというのが特徴です。絵柄は派手な物が多く、裾は長く仕立てられています。お稽古の際は木綿の浴衣を着用することが多いようです。
お教室を開いていたこともあり、査定をした着物には作家物の絵柄が多くありました。買取に際して特に大きなポイントとなるのが、〈作家物〉であるかどうかです。作家物とは、人間国宝や伝統工芸士などによって制作されたオリジナル作品のことを指します。
着物や染織物の世界には、高名な作家がたくさんいます。作家物であるかという以外にも、着物の状態が良いこと、虫食いやシミなどがないことも査定における重要なポイントです。
〈落款〉とは落成款識の略で、作家が仕立てたものであることを証明しています。作家ごとにオリジナルの落款を持っており、おくみか衿先など見えないところに刻印されていることが多いです。
また、有名産地や有名作家の着物には、基本的には着物の情報が書かれている〈証紙〉が付けられます。証紙とは、各産地で設けられた厳しい検査基準をクリアしたものだけに与えられる〈登録商標〉です。
伝統工芸の組合が発行した証紙には、着物の生産地・着物の織元(製造者)・織り方・染色方法などが記されています。証紙も落款と同様、その着物が本物である証になるため、買取査定には着物とともにお持ちいただくことをおすすめします。
「着物=値段が高い」というイメージと反し、現代の着物に対する需要が下がってしまっていることから、査定額にギャップを感じる方が多くいらっしゃると思います。着物の売却をお考えになる際に最も重要なことは、〈買取業者選び〉です。
専門的な知識ももちろん必要になりますが、現在の需要の情報をいかにたくさん仕入れているか、またその説明を各々のお客様に向けてしっかりと出来るかが大切であると考えます。
リサイクルショップなどをはじめ、買取専門店が乱立している現代。インターネットなどで様々な情報が錯綜している中で、ご自身の希望を叶える買取業者選びは非常に重要なポイントです。
『くらや松戸店』では、着物に関する知識と買取経験が豊富な鑑定士が、お客様のご希望に寄り添った買取プランを提案いたします。査定・相談は無料で行っておりますので、お気軽にご相談ください。
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