高田博厚(たかたひろあつ)
高田博厚は1900年8月に
石川県七尾市で生まれました。
学生時代は福井県で生活し
やがて18歳の時には画家になるために上京。
そこでは彫刻家であると同時に
詩人でもある高村光太郎や、
娘の麗子の肖像画の作品群が知られている
岸田劉生と知り合います。
また翌年、1919年には東京外国語学校
イタリア語科へ進学し、古典文学に熱中すると同時に
雑誌の「白樺」にて、ミケランジェロ自身が
自分の現状や内面を綴った書籍
『ミケランジェロの手紙』を翻訳したものを、
高村光太郎の薦めもあって掲載し続けました。
また白樺派の作家の為に贈呈された
ロダンの造った胸像『ロダン夫人』に感銘を受けます。
1921年には落第したのを理由に東京外語学校を退学。
この頃から女性のトルソー像などを造り始めると同時に
1927年に『ミケランジェロの手紙』の翻訳と同じ様に
高村光太郎の勧めで、武者小路実篤が開く
大調和展において作品を公開します。
その後30代の時にフランスへ渡ると
1937年にはパリ日本美術家協会を設立。
そのほか現地ではインド独立運動の父と呼ばれる
マハトマ・ガンジーや、
人道主義の作家であるロマン・ロランなどと出会い
彼らの像を造り上げると同時に
そのヒューマニズムは造り上げる作品に
影響を及ぼします。
そして約28年の滞在期間を経ると
1957年に日本に帰国しました。
なお第2次世界大戦勃発後には
抗議活動のレジスタンス運動に加わっています。
分筆業でも積極的に活動していましたが
後年は作品制作に集中するようになり、
1987年、86歳の時に息を引き取りました。
作風とそのルーツなどについて
高田博厚の母はクリスチャンであり
その存在は高田博厚の作品制作にも
強く影響を与えており、
また作品を制作するという行為は
高田博厚にとって自身の内にある神に
接触を図る手段でもあったようです。
作品を作る際には、表面上のものを描かず
その内面性を深く追求することを心がけ
ロマン・ロランはその事に感銘を受けたことから
自身の立体像を高田博厚に依頼しています。
なお1957年の帰国後には
官設美術展のやり方に対して疑問を表現した
新制作協会に加わっているなど、
立体像制作だけでなく運動や文筆活動でも
自身の考えをありありと伝えている
と言った印象を持ちます。
高田博厚の生きた証
高田博厚は父の遺産によりアトリエを建てるなど
遺産で生活が支えられていた部分も
大きかったようです。
それでも貧しい生活に苦しめられていた
との事ですが、作品制作は辞めませんでした。
またそのアトリエが閉鎖する事を受けて
2017年にアトリエにてお別れ会が開かれています。
ただアトリエがなくなっても
福井市美術館で常設展示として
作品が見られるなどするので、
高田博厚やその作品は忘れられる事はありません。