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野口雨情は、1882年に茨城県で生まれました。実家は廻船問屋として栄えていたため、裕福な家庭で育ち、高等小学校の卒業後は東京専門学校に進学。そこでは劇作家や小説家でもある、坪内逍遥から詩について教わっていますが、翌年には学校を辞めています。以降は詩の制作に打ち込んだほか、句も書くようになりました。
その後1902年には文芸雑誌『小柴舟』に初めて詩人として作品が掲載されます。3年後には日本の初めての創作民謡集とも言われている『枯草』を発表。これは野口雨情個人としても最初の詩集で、自費出版したものでしたが、大きな反響などはなく、画壇にその名を広めるまでには至りませんでした。
この間には父が亡くなり、野口雨情が家督を継いでいますが、20代中頃からはそれに耐えきれず、一時、現在のロシアに位置する樺太へと転居。1907年には三木露風や小川未明、相馬御風と共に早稲田詩社を立ち上げ、同年には北海道で、新聞記者を務めています。2年ほどの間にいくつかの出版社を渡りましたが、母が亡くなったことを期に1912年に故郷へ戻り、本格的に家督を相続し、財産管理などに向き合うようになりました。
しばらく事務員などとして働きますが、文学への熱は尽きず、36歳の時に水戸へと移り、詩の制作を再開。1919年には、童謡雑誌『金の船』上での作品がきっかけで『金の船』の初代編集長として就任することとなります。なおこの頃には童謡なども手掛けるようになりました。同年に詩集『都会と田園』を発表するなど、この年は野口雨情の名が世に知れ渡る時期と言われています。
以降も積極的に作品を発表し続け、40代の頃には民謡や童謡を多くの人に知らせるために講演も行い、また日本童謡集の選者となりました。伊豆大島の波浮港を舞台にした民謡集の『波浮の港』や、『紅屋の娘』を発表したほか、1935年には日本民謡協会を再び立ち上げ、事長として就任。また同年には仏教音楽協会を立ち上げるなど、日本の文壇にて大いに活躍しています。
晩年は日本各地を訪れ小唄の制作に打ち込んでいましたが、1945年、63歳で息を引き取りました。
野口雨情は日本の原風景を強く思い起こさせたり、童心に還るような作品を多く生み出しているのが特徴的です。
また童謡に関しては「童謡は子供が強く興味を引くものであると同時に、大人にとっても子供の頃の事を思い起こさせるものであるべきだ」と語っています。
他にも1926年に三重県南伊勢町に行き、五ヶ所湾を主に見て『五ヶ所湾小唄』を手掛けるなど、晩年にかけて、地方小唄の作詞も行いました。
作詞家としても広く活躍した野口雨情ですが、その活躍には良い作曲家と組めたことも影響していると言えるでしょう。その点は現在まで続く評価の大きな理由としても挙げられます。
作曲家・中山晋平と組んだ歌は『シャボン玉』(『金の塔』で発表)や『船頭小唄』が有名です。
他にも作曲家の本居長世との共作が知られており、『青い眼の人形』(『金の船』上で発表)や『赤い靴』(『小学女生』上で発表)などがあります。
代表作
1924年発表の童謡集『青い眼の人形』(国際子ども図書館が所蔵)や
1929年発表の民謡集『波浮の港』などがあります。
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