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2020.09.03
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酒井三良【日本画家/福島県/風景画/水墨画】

酒井三良(さかいさんりょう)

酒井三良は1897年2月に福島県大沼郡で生まれました。なお本名は三郎と言います。その後、17歳の時に上京すると、同じ大沼郡出身で『和気広蟲』や『上杉謙信』などが知られている日本画家の坂内青嵐に師事。ここで腕を磨きながら、次第に独自で学んでいくようになり、1919年の第2回国画創作協会展では初入選を獲得しました。なおこの間、1916年から日本美術院内にて、日本画について教わっていたという資料も残されています。

やがて20代半ばになると、強い絆を生涯に渡って結ぶこととなる小川芋銭と出会い、彼の勧めで同年の第8回再興美術院展において出した『災神を焼く残雪の夜』が初入選となりました。このことから推薦を受け、1924年には日本美術院の同人として認められています。

一方で、同年に沖縄、またその次の年には千葉県に移るなど住処を転々とし、また40代になってからは国内外の旅を続けるなど頻繁にいくつもの地方を訪れました。50代を目前にした1946年には日本画壇を代表する横山大観のすすめで、茨城県五浦にある横山大観自身の別荘に移り住むようになり、制作活動にもより精を出していきます。

のちに1958年に、院展に出品した『かまくら』によって文部大臣賞を獲得。晩年は東京に転居し、1969年6月、72歳で息を引き取りました。

 

 

酒井三良の作品の特徴は?

酒井三良は地元の会津地方の風景画を、日本人の心に深く染み入るような、温かみのある水墨画として描いている所に特徴があります。

なお技法的にはぼかしの使い方が優れていると言った指摘もなされています。

 

 

酒井三良の評価の背景は?

酒井三良自身が寒い雪国出身である事や、また戦時中であった事も起因して生活に困りながらも、創作に懸けた事。それらが背景となって温かみのある水墨画が出来上がったと言われています。

また、1950年に東京の杉並区に移り住んでいるのですが、それでもなお茨城を含む東北地方ののどかな景色を描き続けています。

 

他の代表作

 

1930年に制作し、第2回聖徳太子奉讃美術展で出した『樵人閑語』

福島県立美術館が所蔵の1919年の第2回国画創作協会展で入選となった『雪に埋もれつつ正月はゆく』などがあります。

 

 

各ワード紹介

■横山大観

1868年に生まれた茨城県出身の日本画家です。

朦朧体と呼ばれる技法などで日本画の革新を行い国内を代表する画家となるのですが、後進の指導も積極的に日本美術院の設立にも関与。

なお東京美術学校にも助教授として勤めていますが、学校内の騒動が起因して辞めています。

 

■小川芋銭

1868年に東京で生まれた日本画家です。

南画や洋画について教わり当初は世の中を批判的な視点で描いた作品を発表するのの、やがて妖精や河童などが登場する絵や、農村の風景画を描くようになりました。