淡島椿岳(あわしまちんがく)
淡島椿岳は江戸後期、文政年間に
武蔵川越にて生まれました。
この「淡島」の名前の他に、小林椿岳の名も有名です。
ちなみに生まれた年については諸説あり
一説では1824年の2月、またはほかに1823年の7月、
などとされています。
父親は画家や作家として活躍したのみならず
コレクターや古美術、考古学としても優れた
淡島寒月で、淡島椿岳自身は
洋画家や漫画家としても活躍しており
親子共通して多趣味で多彩な才能の持ち主です。
また兄は幕末に大富豪として名を馳せた伊藤八兵衛で
淡島椿岳自身も常陸水戸藩士として務めていたなど
とにかく興味深い一族と言えます。
作品について淡島椿岳は、亀を題材にした作品が
評判を得た南画家・大西椿年から
大和絵を学んでいます。
さらにその大西椿年の師匠ともなる
谷文晁からも教わり、
文人画と大和絵の技術を習得した事で
独自の作風として昇華した
高隆古からも指導を受けています。
このように淡島椿岳は様々な師を持ちながらも
自由奔放な人生を送りました。
・大西椿年
谷文晁の影響を受けた作風として人物や山水、
花鳥画を描いていきます。
・谷文晁
清画や狩野派、土佐派など合わせた作風が有名です。
画家として執着しない性格
淡島椿岳は日本画家と言うよりは、
洋画家や漫画家としてよく名が上げられています。
なお洋画の中では泥絵と言って
安い材料で描いたもの、中でも風景や風俗を
題材とした作品で支持を得ました。
ちなみに漫画では、鳥羽僧正による鳥獣戯画から
椿岳漫画に発展させ
大きな反響となり財を得ました。
しかし淡島椿岳自身は作品で収入を得ることに
あまり執着していなかったようです。
淡島椿岳が日本画家として
それほど知られていない理由はその為と考えられ
日本画も道楽の一つとして
考えていたのかもしれません。
ただ、画力に優れている人物であることは確かで
それは多くの師匠からの教えが生きている
と考えられます。
とにかく自由奔放ながら他の画家と交流を持つ
一方で、ピアノやバイオリンなどの習い事
ジオラマや易者にも手を出し、
さらに頭を丸めて坊主になったかと思えば
お経はむちゃくちゃで、女性にも手を出し
妾160人と言う異名も付くほどです。
しかしそれでも淡島椿岳よりも
画家として向き合ってきたと思える、
大成した川上冬崖や高橋由一と交流関係を持っており
自由奔放であっても、淡島椿岳には
惹かれる要素があったのではないかと考えられます。