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2020.05.29
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大庭学僊【日本画家】

大庭学僊(おおばがくせん)

 

大庭学僊は1820年6月に

 

徳山(山口県)にて生まれています。

 

幼少期から絵に慣れ親しんでいた大庭学僊は

 

少年時代に徳山藩の表具師である朝倉南陵から学び

 

さらに谷文晁の門下生でもある

 

原文暉からも指導を受け、18歳の頃には京都に上京。

 

そこでは京都の文人画家として活躍する

 

小田海僊からも教わり、後に養父としての繋がりも

 

持つようになりました。

 

その後しばらくは京都に住んでいたものの

 

山口県の萩に移り住み、大庭学僊の作家名は

 

その頃から使うようになったと言われています。

 

ところが1868年に起きた明治維新以降は

 

東京に住まいを変え、

 

内国勧業博覧会の場において活躍します。

 

その他1888年の治宮殿の杉戸絵の制作に際し

 

依頼された27人の画家に選ばれるなど

 

名声も上げました。

 

晩年は下関で過ごし、1899年、

 

80歳で息を引き取っています。

 

 

 

作風

 

大庭学僊は文人画と北宗画を

 

合わせた作風で知られており、

 

特に山水や花鳥画が有名です。

 

しかし藩のお抱え絵師として活動しながらも

 

浮世絵の美人画も描いており、

 

町絵師として当時の世相を

 

上手く取り入れたと言われています。

 

また師匠の小田海僊が四条派を学んでから

 

南画家として活躍していったのとは真逆に

 

大庭学僊の場合は南画から

 

四条画家として活躍していきます。

 

 

 

関連用語の細かい解説

 

・文人画

 

元々は中国内にいる、画家として務めていない

 

知識人が作った絵画を指していました。

 

自由なタッチで描いているのも特徴ですが

 

日本に入ってくると武士や農民など

 

身分は関係なく、また画家として務めている

 

などの制限を無くしたものとして派生しました。

 

なお文人画は水墨で描かれていることも

 

定義の一つとされ、日本もそれに倣っています。

 

・北宗画

 

柔和なタッチが特徴である南宗画とは

 

反対のものとして定義されました。

 

よって力強さが北宗画の持ち味であり

 

自然を描いた山水画の派生とも言われています。

 

・南画

 

中国から生まれた南宗画が

 

日本に入ってきた際の言葉です。

 

なお南画も柔らかなタッチが特徴とされています。

 

ちなみに文人画とも称されますが、

 

南宗画は職業画家の描いたものも

 

含まれていますので、厳密には異なります。

 

・四条派

 

日本画の一つで京都四条の画家の

 

松村月渓(呉春)から始まりました。

 

写実性と南画の柔らかなタッチが

 

組み合わさったものが、四条派の特徴です。

 

 

 

質素に暮らしを続けた大庭学僊

 

大庭学僊は華々しく活躍しましたが

 

それでもずっと質素に暮らしていた

 

と言われています。

 

また仏道に帰依した事も、

 

その生活を続けた根底にあるとも考えられています。

 

その謙虚さから、大庭学僊自身の

 

人間性が感じられます。