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高野松山【人間国宝/蒔絵】

高野松山(たかのしょうざん)

 

高野松山は明治22年に熊本県で生まれました。

 

祖父は細川藩の儒学者で

 

父は小学校の校長と言う家系の元に育ち

 

幼い頃から細工物に興味を持っていた

 

といわれています。

 

やがて22歳の時に東京美術学校漆工科に入学し

 

そこで繊細な線を描く事で有名な

 

白山松哉と出会ったことがきっかけで

 

蒔絵を学びました。

 

また、皇居造営での宮殿の鏡縁の竹塗りで有名な

 

橋本市蔵とも出会い

 

竹塗りについての教えも受けています。

 

その後肥後熊本藩主である

 

細川侯爵の支援を受けた高野松山は

 

昭和2年の第8回の帝国美術院展覧会において

 

初入選を果たしました。

 

それから昭和30年、66歳の時に

 

「蒔絵」の分野で人間国宝となり

 

21年後の昭和51年に息を引き取っています。

 

代表作としては花入や糸巻香筥

 

木地蒔絵蝶文手箱などが挙げられます。

 

 

 

特徴

 

高野松山の作品は、獅子や蝶、魚介類を

 

テーマにしている事が多いのが特徴的です。

 

師である白山松哉からは

 

繊細なタッチを学んでいますが

 

高野松山は緻密に書き上げ

 

また重厚感があると言われてます。

 

 

 

技法

 

・蒔絵

 

漆工芸で使われる装飾方法で

 

素地に漆液で文様を描き

 

その上から金や銀、錫と言った

 

粉状のものを付けていきます。

 

その為色鮮やかで綺羅びやかな雰囲気となり

 

日本独自の技術とも言われています。

 

また絵を描く要領で粉状のものを掛けることから

 

「蒔絵」とも言われています。

 

・木地蒔絵

 

木地蒔絵とは漆を塗っていない木地の素地に

 

金や黒漆蒔絵を施したものです。

 

漆を塗らない事で木目の美しさが映え

 

また残したい木地の素地部分に

 

一旦錫金貝を貼ると言う作業も行います。

 

 

 

作品を作り続けた高野松山

 

高野松山は恵まれた家系や

 

肥後熊本藩主の細川侯爵の支援を受けているなど

 

その環境は周りから羨望されていた

 

と言われています。

 

しかし高野松山自身は昼は細川家の護衛をし

 

夜は製作に打ち込むと言う毎日を

 

その生真面目さで乗り越えていったと言う事です。

 

 

 

香取正彦【人間国宝/梵鐘】

香取正彦(かとりまさひこ)

 

香取正彦は明治32年に、東京都に生まれます。

 

父の香取秀真は鋳金家でもありながら

 

歌人・俳人としての才能を持つ

 

文化勲章受章者としても知られており

 

香取正彦は生まれてすぐ父の出身県である

 

千葉県佐倉市へ移り住みました。

 

(香取秀真は千葉県印旛郡出身です。)

 

香取正彦は当初洋画家を目指していましたが

 

東京美術学校の鋳金科に進学し

 

鋳金家である津田信夫に師事しました。

 

在学中から古典研究をベースとしており

 

大正14年にパリ万国装飾美術工芸博覧会において

 

銅牌を受賞。

 

昭和5年には帝国美術院展覧会の

 

工芸部門にて特賞も受賞も果たします。

 

そして昭和52年には人間国宝となり

 

昭和6311月に息を引き取ります。

 

 

 

特徴

 

香取正彦は仏教で使われる鐘である

 

梵鐘の制作を行った事で知られています。

 

戦時中に戦争の兵器として使われるために

 

多くの仏具が取り壊された事に

 

衝撃を受けた香取正彦は、それらの修復と同時に

 

梵鐘の制作に取り掛かり

 

150鐘以上の梵鐘を残しています。

 

また50代半ば頃からは、香取秀真との共同制作で

 

梵鐘を残している事で知られており

 

比叡山延暦寺や成田山新勝寺のための

 

梵鐘を制作しました。

 

さらに昭和33年にはアメリカのサンディエゴ市のため

 

「友好の鐘」も作った事から

 

日本の世界の平和の架け橋を渡した

 

とも言えるでしょう。

 

 

 

鋳金の技法

 

鋳金では茶釜にも使われる

 

鋳金と言う技法を用います。

 

鋳金は溶かした金属を鋳型に流し込み

 

冷えて固まった後に凸凹している部分を削り取って

 

成形する作業の事を言います。

 

簡単な作業のようにも聞こえますが

 

実際は多くの細かい過程があり、時間がかかります。

 

そのほか梵鐘では

 

図案を描いてへら押しをしたり

 

外型作りと言った作業も行います。

 

 

 

梵鐘の背景

 

梵鐘は元々、中国で

 

青銅製の金属器が作られた事から始まりました。

 

その青銅製の金属器は楽器として作られ

 

戦で使われていたと言う歴史があります。

 

それが日本においては飛鳥時代の時に伝わり

 

アジア諸外国では梵鐘を打ち鳴らした時の

 

音の反響を重視しないのに対し

 

日本では独自にその音を求め発展してきた

 

と言う経緯があります。

 

 

 

生きた証を残している香取正彦

 

香取正彦は昭和60年に

 

目黒区に梵鐘を贈呈しています。

 

また同年5月に目黒区は平和都市宣言をし

 

贈呈された鐘を「めぐろ平和の鐘」と名付けました。

 

そのほか香取正彦は、鋳師(イモジ)の春秋や

 

金工の伝統技法など、数々の本を残しているので

 

その生きた証は梵鐘のみならず

 

十分に感じる事ができます。

 

 

 

桂盛仁【人間国宝/彫金】

桂盛仁(かつらもりひと)

 

桂盛仁は昭和19年に東京都で生まれました。

 

10代半ばで彫金家である父の盛行の下で修行を積み

 

後に武蔵野美術短期大学で学ぶと

 

昭和46年には第18回日本伝統工芸展で

 

初入選を果たします。

 

また、平成7年には、さくらんぼ金具による作品でも

 

伝統工芸日本金工展文化庁長官賞を受賞。

 

その細かな装具作りは

 

桂の代名詞ともなっていきました。

 

 

そして64歳の時には彫金の技術で

 

人間国宝として認定され、同年には

 

伊勢神宮遷宮御神宝を制作します。

 

(ちなみに平成4年時にも、

 

伊勢神宮遷宮御神宝を手掛けています。)

 

 

 

作風の特徴

 

桂盛仁は四分一による立体的な作品作りを

 

得意としています。

 

四分一は銅を3割、銀を1割使った

 

装飾のための合金の事で、

 

別名として朧銀とも呼ばれています。

 

しかしその四分一は材質としては硬く

 

また熱にも弱い事から、細かな作りを施すのには、

 

非常に難しいと言われています。

 

そう言った四分一で立体物を制作する者は

 

日本でも数える程度しか存在せず

 

中でも桂盛仁の場合は特に

 

高さを出す技術に特化しています。

 

また金工製作も得意としており

 

金工に関しても彫金として扱えるのは

 

片手で余るくらい希少なものなのです。

 

 

 

柳川派の一人・桂盛仁

 

桂盛仁は父・桂盛行も含めて

 

柳川派を受け継いでいます。

 

柳川派は装剣金工の流派の内の一派で

 

桂盛仁は柳川派12代目にあたります。

 

柳川派は室町時代時代から続き

 

同じ柳川派としては江戸中期に活躍した横谷宗珉や

 

明治から昭和にかけて作品を発表した桂光春もいます。

 

 

 

代表的な技法

 

桂盛仁の作品で見られる

 

代表的な技法について紹介します。

 

・象嵌

 

陶磁や木材、金属などに、金や銀、貝と言った

 

他の材質のものを嵌める技法を指します。

 

・鍛金

 

金属板を叩くことで伸ばして、立体物を作ります。

 

・彫金

 

金属を彫り刻む技法です。

 

・薄肉彫

 

金属を浮かせて模様などを付ける技法です。

 

 

桂盛仁はこれらの技法を組み合わせて、

 

多種多様な作品を作り上げます。

 

 

 

受け継がれる技法

 

父の桂盛行は残念ながら平成8年に亡くなりました。

 

しかし桂盛仁は平成28年に

 

奈良県薬師寺の大宝蔵殿・聚寶館にて

 

「粋と美の日本 彫金 桂盛行・桂盛仁父子展」

 

を開催します。

 

また、自身の作品の制作を続けながら

 

東北芸術工科大学や金沢美術工芸大学の

 

非常勤講師を務めるなど

 

後進の教育にも勤めました。

 

このようにして桂盛行は父から受け継いだ技法を、

 

後世にも大切に伝えています。

 

 

 

塩多慶四郎【人間国宝/髹漆】

塩多慶四郎(しおだけいしろう)

 

塩多慶四郎は、1926年に

 

輪島市河井町で生まれました。

 

生家は輪島塗装を営んでおり

 

父は輪島塗装師の角野勝次郎にあたりますが

 

塩多は3歳の時に

 

母方の塩多家の養子に入っています。

 

そして母方の塩多家も同じく

 

輪島塗を家業としていました。

 

やがて尋常高等小学校を卒業すると

 

養父の塩多政から輪島塗の知識や技術を学びます。

 

そして戦後、輪島に戻り塗師として働き

 

一時は大日本紡績大垣化学紡績工場で

 

化学塗料の研究職などにも従事しました。

 

26歳になると再び輪島に帰り、

 

塩多漆器店の四代目として

 

本格的に輪島塗に取り組みます。

 

その後、勝田静璋から蒔絵を学び

 

38歳の時、第6回石川の伝統工芸展で入選します。

 

さらに翌年には、第12回日本伝統工芸展で

 

「乾漆菓子鉢」が入選したと共に、塩田慶四郎が

 

生涯の師と仰ぐ松田権六から漆塗の薫陶を受け

 

強く影響を受けることになります。

 

1971年には、第27回現代美術展で

 

「乾漆古代朱盤」が技術賞を受賞し

 

その後も数々の展覧会で受賞を続けて行きました。

 

そして1987年に紫綬褒章を受章し

 

1995年、69歳の時、「髹漆」の分野で

 

重要無形文化財保持者に認定されています。

 

その後は石川県立輪島漆芸技術研究所主任講師に就任し

 

後進の育成にも力を注ぎました。

 

 

 

塩多慶四郎の作品の特徴と技法

 

塩多慶四郎の作品の特徴は

 

漆芸の伝統的な技法に加えて

 

和紙や麻布の素地を漆で塗り固める技法を駆使して

 

作品に深い光沢をもたらした点にあります。

 

端正なフォルムに朱漆塗、溜塗、変わり塗など

 

様々な技法を独自に編み出しました。

 

また、素材感を引き立たせる為に

 

輪島地の粉を漆に混ぜて塗り込むなど

 

多彩な表現方法を駆使して作品を制作しています。

 

 

 

塩多慶四郎の評価される所以

 

塩多慶四郎が評価される点は

 

独自の技法を編み出し

 

素晴らしい作品を発表しているだけでなく、

 

その技術を駆使した日本の文化遺産の保護にも

 

力を注いでいる点にあるでしょう。

 

東大寺南大門阿形仁王門像大修理では

 

「胎納仁王経納入箱」、

 

正倉院宝物「漆彩絵花形皿」などの模造制作を行い

 

日本の漆芸文化を代表する作品の保存にも

 

貢献しています。

 

 

 

磯井如真【人間国宝/蒟醤】

磯井如真(いそいじょしん)

 

漆芸家の磯井如真は、1883年に

 

香川県で生まれました。

 

香川県立工芸学校を卒業したのち、

 

大阪山中商会で中国漆器の修理などに

 

従事しています。

 

やがて1909年に高松に戻り

 

香川漆器の研究に没頭しました。

 

香川漆器は製法が絶えていましたが

 

磯井はそれを復興させるだけでなく

 

独自の研究でその技術を近代化させています。

 

また、自身が学んだ香川県立工芸学校などで

 

後進の育成にも尽力しました。

 

1953年には岡山大学の教授に就任したほか

 

自身の制作活動も続け、香川漆器を創始した

 

玉椿象谷の蒟醤の線彫りを点で彫った

 

「点彫り蒟醤」を創案したりと

 

独自の技法を編み出しています。

 

やがて1956年、73歳の時に重要無形文化財

 

「蒟醤」の分野で人間国宝に認定されました。

 

さらに、1961年には紫綬褒章、

 

1964年には勲四等旭日小綬章を綬章しています。

 

 

 

磯井如真の作品の特徴と技法

 

磯井如真は、蒟醤の技法を独自に深め

 

昇華したことで知られています。

 

漆を何層にも重ねて塗り器の表面に

 

蒟醤剣で文様を彫り込み、色漆を埋め、

 

さらに黄漆や朱漆の色に合わせて文様を刻み

 

充填させていくという技法です。

 

充填させた後は、余分な漆を取り除いて

 

研磨していきます。

 

磯井如真の作品は、新しい観点の

 

清廉な作風が特徴です。

 

その独自の作風を切り開くことができたのは

 

幼少の頃に父から厳しく漆芸を学んだことに加え

 

若い頃に勤めていた大阪山中商会で

 

中国漆器の修理に深く関わっていたことにも

 

影響しているとされています。

 

 

 

磯井如真の評価される所以

 

磯井如真が評価される点は

 

蒟醤で用いられていた線彫りから

 

独自の技術で点彫りを編み出し

 

独特な風合いを持つ作品を

 

蒟醤の世界に確立させたことと言えます。

 

また、独自の観点から新しく作風を

 

開拓したことに加え、香川漆器の発展の為、

 

工芸学校などでも後進の育成に力を注いでいます。

 

弟子からも人間国宝に認定された磯井正美、

 

太田儔などを輩出するなど、

 

その功績には多大なものがあります。

 

 

 

鈴木藏【人間国宝/志野】

鈴木藏(すずきおさむ)

 

鈴木藏は193412月に岐阜県土岐市にて生まれます。

 

やがて19歳で県立多治見工業高校窯業科を卒業すると

 

丸幸陶苑試験室に入社しました。

 

また父は美濃焼の釉薬と土の研究をしており

 

鈴木は丸幸陶苑試験室にてその手伝いを行うと同時に

 

日展や朝日陶芸展の受賞者でもある

 

陶芸家の加藤幸兵衛から作陶の教えも受けています。

 

25歳の時には第6回日本伝統工芸展に

 

出品した作品が初入選を果たし、1982年には

 

日本陶磁協会金賞を受賞しました。

 

また、志野焼に対する独自追求性が認められ

 

1994年、60歳の時に

 

人間国宝として認定されています。

 

 

 

技法と定義

 

志野焼について

 

志野焼は美濃焼の一種と呼ばれています。

 

安土桃山時代から始まり

 

香道の志野流の始祖である

 

志野宗信の命令により作られたと言われています。

 

長石と土灰による釉薬をふんだんに掛けて焼き

 

穏やかな白味が混じりながら

 

鉄分の素地が見えるのが志野焼の特徴です。

 

その他、無地志野や絵志野、練込志野など

 

種類も細かく分かれています。

 

ぐい呑みの定義

 

鈴木藏はぐい呑み用の作品を

 

よく作っている事で知られています。

 

ぐい呑みは定義として

 

「ぐいぐい呑めるほどの大きさ」とされており

 

お猪口よりも大きく茶碗よりも小さい

 

とも言われています。

 

またぐい呑みは杯へ注いで直接飲むのも

 

定義と言われています。

 

 

 

作品の特徴

 

鈴木藏は半地下式穴窯から

 

独自に発展させたガス窯での作品作りが認められ

 

人間国宝に認定されました。

 

半地下式穴窯とは溝の形に地面を掘り

 

そこに天井や屋根を取り付けた穴窯の事です。

 

この窯は室町時代末期から伝わっており

 

志野焼の他に瀬戸黒や黄瀬戸も

 

作られてきたと言われています。

 

長らく使われていない期間もありましたが

 

岡山県備前市出身の陶芸家である

 

伊勢崎淳によって、復元されました。

 

そしてこのガス窯は主に倒炎式で焼き

 

焼きむらが少ないと言う利点があります。

 

鈴木藏は20代の内からガス窯を使い

 

火力が強く出せると同時に調整もしやすい所に

 

目を付けていました。

 

 

 

探求を続ける鈴木藏

 

このようなガス窯での作陶は大胆で

 

また個人的に伝統工芸品とガスは

 

結び付かないイメージがあります。

 

しかし鈴木藏は

 

「志野は当初斬新な焼き物として注目されていた。

 

常に最新のものを取り入れてこそ創造と呼べて

 

ただ昔を真似るだけでは焼き増しにしか過ぎない」

 

と言った旨の発言をしています。

 

また鈴木藏は独自で考えていく事を辞めず

 

志野で使われている長石と土灰による

 

釉薬の研究も行いました。

 

そしてそれらの研究姿勢は、

 

丸幸陶苑試験室に入社し研究家でもある

 

父の手伝いをしている所から

 

続いている事が分かります。

 

 

 

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