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清水卯一【人間国宝】

清水卯一(しみずういち)

 

清水卯一は、中国の鉄釉や柿釉の技術を研究し

 

制作した作品で有名となり

 

人間国宝に認定された陶芸家です。

 

日本伝統工芸展に自身の作品を出品して

 

注目を集めるようになってからは、

 

ブリュッセル万国博覧会でグランプリを受賞するなど

 

国内外から高い評価を受けました。

 

晩年には病気に悩まされながらも

 

亡くなる直前まで古典の作品を作ると口にしており

 

誰よりも陶芸を愛した陶芸家でした。

 

 

清水卯一とは

 

清水卯一は1925年に京都で生まれました。

 

彼の家は陶工に関わる職人を束ねていた

 

陶器卸問屋をしており

 

幼いうちから陶芸に触れた生活を送っていました。

 

卯一が11歳の時に父は病死してしまい

 

家業を継ぐために立命館商業学校に入学しました。

 

しかし次第に陶芸に興味を持ち、学校に行かなくなると

 

卯一は近隣のろくろ師の家に通うようになります。

 

これに困った親は、卯一をのちに初代人間国宝となる

 

石黒宗磨のもとに弟子入りさせることを決め、

 

陶芸を本格的に学ばせました。

 

石黒宗磨のもとで卯一は、中国陶芸を学んでいきます。

 

しかし、戦時中により石黒のもとに通い続けることが

 

困難になった卯一は、やがて

 

石黒の弟子としての道をあきらめました。

 

その後、国立京都陶磁器試験場伝習生を経て

 

京都市工業研究所窯業部の助手になり

 

終戦を機に自宅に仕事場を設けて

 

本格的に陶工として歩み始めたのです。

 

1970年には

 

京都から滋賀県滋賀郡の蓬莱山のふもとに移り

 

新たに窯を開きました。

 

ここでは、陶器の原料となる土や石を

 

全て蓬莱でとれたものだけを利用するという

 

こだわりを持って作品を作っています。

 

そして、1985年、鉄釉陶器が認められた卯一は

 

人間国宝の認定を受けたのでした。

 

 

清水卯一の作品の特徴

 

清水卯一は「感激一瞬」を人生のテーマに

 

作品を作り続け

 

人々の心に感動を与える作品を追求していきました。

 

戦後まもなく、人々の生活が困難だった時代には

 

温かみのある陶器を見て心を癒してほしいとの願いから

 

「柚子肌釉」を使った

 

優しい味わいの作品を作るようになりました。

 

柚子肌釉を用いた陶器は名前の通り

 

柚子のような質感が出て

 

温かみのある作品となります。

 

また、石黒宗磨のもとで修業していたこともあり

 

鉄釉を用いた渋い黒や茶色の、味のある作品も

 

多数制作しました。

 

 

代表作

 

清水卯一の作品として有名なものに

 

「鉄釉大鉢と小鉢」や

 

「蓬莱磁彫刻花文花瓶」などがあります。

 

「鉄釉大鉢と小鉢」はシンプルなデザインに

 

素朴ながらも美しい鉄釉の輝きが映え、

 

思わず見とれてしまうような作品です。

 

また、原料の全てを蓬莱山から調達して作った作品は

 

蓬莱の名前が作品につけられており、

 

蓬莱磁彫刻花文花瓶もそのうちの一つとなります。

 

 

島岡達三【人間国宝/民芸陶器】

島岡達三(しまおかたつぞう)

 

縄文象嵌で有名な人間国宝、島岡達三が

 

陶芸に目覚めたのは彼が高校生の時です。

 

その後、東京工業大学の窯業学科を卒業し

 

濱田庄司を師として益子焼の作陶を始め、

 

最終的には縄文象嵌と呼ばれる

 

独特の美を生み出しました。

 

ここではそんな島岡達三の経歴や

 

作風をご紹介していきます。

 

 

島岡達三とは

 

島岡達三は東京に生まれ

 

学生の頃に目黒区駒場にある「日本民藝館」で

 

民芸作品を目にしたことをきっかけに、

 

陶芸の道を志しました。

 

そして民芸運動の中核メンバーである

 

栃木県益子の濱田庄司(はまだ しょうじ)の弟子となり

 

陶芸の腕を磨きます。

 

その後は栃木県窯業指導所に勤務し

 

古代土器の標本を作るなどして縄文土器の知識を深め

 

34歳の頃には

 

独立して自分の窯を持つまでとなりました。

 

 

島岡達三が独立をしたのは、それまで濱田庄司の作品と

 

似たような作品ばかりを作陶していたことを

 

濱田が見かねて、「自分独自のものを考案して作れ」と

 

諭したのがきっかけだと言われています。

 

それから島岡は研究を重ね、組紐からアイディアを受け

 

それを転がして出来る縄目に白土を埋め込む

 

「縄文象嵌(じょうもんぞうがん)」の技術を

 

完成させていきました。

 

さらに、島岡は縄文象嵌に加え

 

素地に白い窓絵を設けた中に赤絵で描画したり、

 

象嵌に青・黒色の土を用いて焼成するなど

 

独自の技法を確立しました。

 

これに師である浜田庄司からの影響も交えた作品が

 

後の平成8年、国の重要無形文化財

 

「民芸陶器(縄文象嵌)」保持者に認定されたのです。

 

他にも島岡達三は、昭和55年に栃木県文化功労賞、

 

平成6年に日本陶磁協会賞金賞、

 

平成11年に勲四等旭日小綬章を受章するなど

 

多くの賞を受賞し

 

日本だけではなく海外でも大規模な個展を開くなど

 

作陶指導を始めとした活動を行いました。

 

 

縄文象嵌とは

 

縄文象嵌とは、陶器の地に縄目を施し

 

色の違う土をはめ込む(象嵌する)技法のことです。

 

平成8年に島岡達三によって確立され

 

重要無形文化財として認定されています。

 

特殊な釉薬を用いているので

 

器が白濁しているのが特徴で

 

技法としては、まず成形して半乾きの状態の素地に

 

縄を転がして模様をつけるところから始まり

 

縄模様の凹んだ部分を含め

 

全体に化粧土を塗り、乾燥させます。

 

そして表面を削ると、縄で凹んだ部分には化粧土が残り

 

もともと平らな部分には下地があらわれる事で

 

縄模様がくっきりと浮き出てくるのです。

 

この状態に透明釉をかけて焼成することで

 

本焼きが完成します。

 

 

このような技法と独自のアイディアによって

 

島岡達三の縄文象嵌は作り出されてきました。

 

 

来歴でも紹介した、縄文象嵌に

 

ろうそくを用いてつくった白い窓絵の中に

 

赤絵で描画を施す装飾や

 

象嵌に青や黒色の土を用いる装飾など、

 

他の技法と組み合わせつつ

 

独自の発想を組み込むことで

 

島岡達三独自のデザインが仕上がっていきます。

 

そのため、島岡達三の作品は

 

他の技法と組合せた独創的な作品が多く見られます。

 

中でも、特にその特徴が表れていると言われているのは

 

象嵌赤絵草花文角瓶です。

 

島岡達三独特の縄文象嵌、一部青い土を用いた地

 

そして窓絵、と多くの技法が施されており

 

瓶の4つの面はそれぞれ赤絵が違うので、

 

見る角度により異なった印象や雰囲気が楽しめる点も

 

魅力の一つとなっています。

 

 

その他にも島岡達三は、

 

朝鮮の三島のやきものにも興味を持ち

 

独特の印花、刷毛目、彫三島、の3つの技法の内、

 

印花を応用して

 

縄文象嵌を作り上げたとも言われています。

 

 

三島達三が人間国宝に認定されたこともあり

 

益子焼はますます名を広げました。

 

現在でも栃木県芳賀郡益子町では

 

多くの陶芸家が活躍しており

 

人々に親しまれています。

 

 

濱田庄司【人間国宝/民芸陶器】

濱田庄司(はまだしょうじ)

 

濱田庄司は近現代の日本を代表する陶芸家です。

 

柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチなどの

 

陶芸家から指導を受け、

 

数多くの名作を作り上げていきました。

 

彼の作品は、シンプルな造形と大胆に施された

 

釉薬の模様が特徴的であり

 

1955年には第一回の人間国宝にも選ばれました。

 

 

また、濱田庄司といえば、民芸運動でも有名です。

 

日用品の中に美しさを見つけようとする

 

「用の美」を見出し

 

活用していこうという運動は大きな反響をよびました。

 

ここでは、そんな濱田庄司の生涯と

 

作風について紹介します。

 

 

濱田庄司とは

 

濱田庄司は1894年に東京で生まれました。

 

陶芸家の道を志したのは中学校に入学してからです。

 

高校は陶芸について学べる

 

東京高等工業学校窯業科に進み

 

その後京都の陶磁器試験場に入所して

 

陶芸家として第一歩を踏み出しました。

 

また、このころに濱田は陶芸家の巨匠ともいえる

 

柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチと出会い

 

陶芸家として成長していったのでした。

 

 

1920年からはバーナード・リーチの帰国に同行し、

 

イングランドで窯を開きます。

 

濱田庄司はロンドンなどでも個展を開くなど

 

海外でも高い評価を受けていました。

 

日本に帰国後は、沖縄で壺屋焼を学んだ後、

 

栃木県の益子市に腰を据えます。

 

また、益子に移ってからは柳宗悦や河井寛次郎らと

 

民芸運動を始め,日本の工芸会にも

 

大きな影響を与えた一人になりました。

 

濱田庄司は1955年に人間国宝に認定され、

 

1968年には文化勲章を授かり

 

日本を代表する陶芸家としてその名を刻んでいます。

 

 

濱田庄司の作品の特徴

 

濱田庄司は赤絵や流掛、

 

塩釉などの技法を得意としました。

 

塩釉は最高温時に食塩を窯の上部から投入し

 

食塩のナトリウムと陶土のケイ酸が融合させる技法で、

 

塩が作品に焼ついてガラス模様になる面白い技法です。

 

これ以外にも、沖縄で身に付けた黍文(きびもん)

 

という独特な模様を施した作品なども作っており

 

作品作りにおいて様々な引出しを持った陶芸家でした。

 

 

代表作

 

塩釉を施した作品では

 

「塩釉押文花瓶」などが有名です。

 

美しいツヤと色合いが特徴的な花瓶です。

 

また、青釉押文十字掛角皿や白釉黒流描鉢、

 

飴釉地掛筒描楕円皿など、

 

様々な釉薬を駆使した多彩な作品も

 

数多く手がけてきました。

 

濱田庄司の作る作品はどれも力強さがあり、

 

見る者の目を引くものばかりです。

 

 

石黒宗磨【人間国宝/鉄釉陶器】

石黒宗磨(いしぐろむねまろ)

 

石黒宗麿は京都府出身の陶芸家です。

 

彼はその生涯の中で

 

中国や朝鮮の古陶器について研究し

 

中国の唐、宋時代の技法を解明するなど

 

大きな功績を残しました。

 

また、日本で初めて人間国宝に選ばれた

 

陶芸家としても有名です。

 

ここではそんな石黒宗磨と

 

その作品についてご紹介します。

 

 

石黒宗磨とは

 

石黒宗磨は明治26年、富山県射水市で生まれました。

 

学生時代は中学でストライキを企て退学したり

 

大学でも仕送りを遊びに使って中退するなど

 

自由奔放な行動が目立ちましたが、

 

そんな石黒が陶芸家を目指したのは25歳の時です。

 

当時、中国の宋時代に作られた「耀変天目」

 

という陶器に大変影響を受けた石黒は、

 

陶芸家になることを志します。

 

35歳の時には、東洋陶磁器研究の第一人者であった

 

小山富士夫に影響を受け

 

中国の唐・宋時代の古陶器を研究するようになります。

 

そして、研究の末に「木葉天目」などの作品を

 

再現することに成功しました。

 

若いころの自由な感性をなくさず、石黒はその他にも

 

黒柚や鉄絵、天目柚、唐津、色絵、灰柚など

 

多岐にわたる技術を駆使して作品を作り続けました。

 

 

その後、当時初めて作られた人間国宝の制度に

 

富本憲吉、濱田庄司、荒川豊藏ら3人と共に選ばれ

 

日本初の人間国宝の一人に選ばれたのでした。

 

 

石黒宗磨の作品の特徴

 

石黒は25歳で陶芸家になり、特定の師を持たずに

 

陶芸家の道を歩むことになりました。

 

そんな石黒は、東京、富山、埼玉、

 

金沢、京都などを転々していくうちに

 

小山富士夫や金重陶陽などと交流を持つようになり

 

様々な技法を身につけていきました。

 

その中でも、鉄釉陶器の技法が有名で

 

この技法により石黒は

 

人間国宝に選ばれることになりました。

 

鉄釉陶器とは、植物の灰に

 

酸化鉄を混ぜたものを釉薬として用いた陶器です。

 

鉄釉を釉薬に用いることで酸化鉄が呈色剤となり

 

味のある陶器を作ることができるのです。

 

また、こうした酸化鉄で陶器に絵を付けるものを

 

「鉄絵」と呼びます。

 

 

代表作

 

石黒宗磨の作品で有名なものは、中国の宋時代の

 

幻といわれていた技法を再現して作った

 

「木葉天目」です。

 

この作品により、石黒の名前は

 

広く世に伝わるようになりました。

 

木葉天目は鉄釉の陶器に木の葉を焼き付けた茶碗で

 

光り輝く黒色がなんとも美しい作品です。

 

また、鉄釉作品以外にも

 

チョーク描と呼ばれる珍しい絵付けを施した

 

「白地チョーク描薔薇文鉢」なども有名です。

 

様々な技法を取り入れ

 

多彩な陶器を作り上げていった石黒宗磨は

 

まさに初代の人間国宝にふさわしい陶芸家であった

 

と言えるでしょう。

 

 

十四代酒井田柿右衛門【人間国宝】

十四代酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)

 

十四代目酒井田柿右衛門は、

 

有田焼を代表する陶芸家です。

 

美しい色絵の技術や「濁手」と呼ばれる

 

独特の技術を得意としており、

 

海外からも評価の高い作品を

 

次々と作り上げていきました。

 

2001年には

 

「色絵磁器」の重要無形文化財保持者として

 

人間国宝にも認定されています。

 

そんな、十四代酒井田柿右衛門の生涯と

 

手がけた作品について紹介していきます。

 

 

十四代酒井田柿右衛門とは

 

柿右衛門家の始まりは17世紀前までさかのぼります。

 

良質な陶土がとれるとして佐賀県の有田町に移住した

 

酒井田円西は息子の喜三右エ門と共に、

 

白磁や染付などを作っていました。

 

その後17世紀前半

 

赤絵磁器の制作に成功したことを機に

 

「柿右衛門」の名を名乗るようになりました。

 

そこから柿右衛門家は技術と作風を継承し続け、

 

現在までその名前を受け継いでいます。

 

 

十四代酒井田柿右衛門は1934年、

 

佐賀県で生まれました。

 

父は、のちの十三代酒井田柿右衛門となる

 

酒井田渋尾でした。

 

十四代酒井田柿右衛門は、

 

多摩美術大学日本画家に進学し

 

絵画的構想力や絵画技術の基礎を習得していきました。

 

卒業後は十二代柿右衛門や十三代柿右衛門から

 

製陶技術を学んでいき

 

1966年に陶芸家としてデビューしました。

 

デビュー後は、優れた絵画技術と、

 

柿右衛門家で受け継がれる「濁手」と呼ばれる技法で

 

数々の名作を作り上げていきます。

 

国内外で名誉ある賞をもらうようになり

 

2001年、ついに色絵磁器の分野で陶芸家として

 

人間国宝に認定されたのでした。

 

 

 

十四代酒井田柿右衛門の作品の特徴

 

十四代酒井田柿右衛門は

 

「濁手」を中心に創作活動を続け

 

作品を世に送り出してきました。

 

「濁手」とは乳白色の素地のことで

 

通常有田焼で使用するものは青みが強いのに対し,

 

濁手には青みがほとんどないのが特徴です。

 

この濁手の上から色絵を描くことで、

 

絵の色合いが引き立ち

 

鮮明な絵柄の作品が作られるようになるのです。

 

 

実は、濁手の製作は江戸中期に一度中断されており

 

長い間復興されていませんでした。

 

これを復興させたのが十四代の父と

 

祖父に当たる十三代と十二代柿右衛門だったのです。

 

十四代は、先代の技術を受け継いで

 

素晴らしい作品を世に送りだしていったのでした。

 

 

代表作

 

「濁手桜文鉢」は濁手による純白の下地に

 

鮮やかな絵が施されている作品です。

 

淡い色合いで絵が施されており、

 

やわらかな味わいが感じられる作品です。

 

一方「濁手山つつじ文鉢」は

 

赤色の鮮明な色絵が描かれており

 

見る人の眼を引く作品となっています。

 

 

十四代今泉今右衛門【人間国宝】

十四代 今泉今右衛門(いまいずみいまえもん)

 

十四代今泉今右衛門は陶芸家として最年少となる

 

51歳で人間国宝に認定されています。

 

今泉今右衛門窯では代々「鍋島焼」という、

 

販売を目的とせず将軍への献上や

 

幕府の要人に向けての贈り物として作られる焼き物を

 

伝承してきました。

 

伝統を受け継ぎながら

 

新しさを加えることも忘れなかった

 

今泉今右衛門の鍋島焼は、年々作品に磨きがかかり

 

現在では今泉今右衛門は国宝といわれるまでの作品を

 

作るようになったのです。

 

 

ここでは、人間国宝に選ばれた

 

十四代今泉今右衛門についてご紹介していきます。

 

 

十四代今泉今右衛門とは

 

十四代今泉今右衛門が陶芸の道を歩み始めたのは

 

26歳になってからです。

 

大学時代は鉄の彫刻を学び、

 

卒業後はインテリア販売の会社に就職。

 

様々な芸術の形に触れたのち、陶芸家の鈴木治に

 

弟子入りすることになりました。

 

鈴木治の下では「ろくろや手捻り、老舗の作品など、

 

とにかくいろいろなものを見るように」と教えられ、

 

勉強に励みました。

 

ちょうどその頃は、同年代の陶芸家が

 

公募展で受賞して実績をつくっており

 

周りと比較してしまい焦りを感じていた今右衛門でしたが

 

今この時期に学んだ感性や技術が

 

のちの作品に生きてくるのでした。

 

1990年以降は

 

父である十三代今泉今右衛門のもとで家業を継ぎ、

 

色鍋島を中心とする

 

色絵磁器の陶芸技術を受け継ぎました。

 

その後は、色鍋島の技法に自分独自の技法を織り交ぜ

 

様々な賞を受賞していきました。

 

 

十四代今泉今右衛門の作品の特徴

 

十四代は、古くから鍋島焼に用いられる

 

「墨はじき」という技法を発展させた

 

雪花墨はじき」という技法を考案しました。

 

ここで表現されている模様は

 

ある時伝統の「墨はじき」という技法で

 

梅の花を描いたところ

 

焼き上がりが雪の結晶に見えたことがきっかけで

 

生まれたといいます。

 

墨はじきはまず墨で模様を描き

 

そこに染付け用の呉須の絵具を塗り焼成することで、

 

呉須をはじいた墨が飛び

 

美しい白抜きだけが浮き上がるようになっています。

 

 

代表作

 

代表作の「色絵薄墨墨はじき時計草文鉢」は

 

時計草の花模様と雪の結晶のバランスが絶妙な、

 

やさしい雰囲気に包まれた作品です。

 

墨の濃淡で花が内側から外側に向かって

 

広がっていく様子も

 

見事に表現されています。

 

また、「色絵薄墨墨はじき柘榴文蓋付瓶」も

 

鮮やかな色使いで描かれたザクロの葉と、

 

白く抜かれたざくろ模様が独特の風合いを生む、

 

今右衛門の名作として知られています。

 

 

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