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バーナード・リーチ【文化勲章】

バーナード・リーチ

 

日本で活躍したイギリス人陶芸家

 

バーナード・リーチの作風の特徴と技法を

 

ご紹介していきます。

 

 

来歴

 

バーナード・リーチは明治20年に香港で生まれました。

 

誕生直後に母親が亡くなったため

 

京都に住んでいる祖父に引取られ

 

以後4年間を日本で過ごします。

 

それから10年後の明治30年にイギリスに渡り

 

エッチングと言う銅版画や彫刻

 

陶磁器などに使われる技術を学んでいます。

 

 

また、幼少期を過ごした日本のことを

 

忘れていなかったバーナード・リーチは

 

明治42年に日本に渡り

 

培ったエッチング技術を通して

 

柳宗悦に代表する白樺派と交流を深めました。

 

そして11年後となる大正9年には

 

イギリスに帰国し、そこで登り窯を作ります。

 

 

作風とその歴史

 

バーナード・リーチの作品の特徴は

 

柳宗悦が確立させた「用の美の精神」を

 

根底としながらも

 

スリップ・ウェアやガレナ釉を用いて、

 

イギリスの文化を色濃く投影させている所

 

にあると言われています。

 

また高い素描き技術もあり

 

陶磁器には洗練されたデザインが描かれており

 

そのため品の良さが

 

氏の作品にはあると言われています。

 

バーナード・リーチは自身の作品の事を

 

「東と西との結婚」としています。

 

足繁く通った日本の地方の焼き物の作法に

 

イギリスで培われた文化や技法を交えて用いました。

 

特にその中で取り上げられるのが

 

大分県日田市小鹿田地区発祥の小鹿田焼です。

 

小鹿田焼では飛び鉋や櫛描き

 

刷毛目と言った技法を用います。

 

昭和29年に3週間ほど

 

小鹿田地区に訪れたバーナード・リーチは

 

小鹿田焼による作品を発表しています。

 

これがメディアに取り上げられると

 

小鹿田焼はたちまち注目され

 

その知名度に大きく貢献しました。

 

 

また氏が称賛された部分として

 

もう一つ取り上げられるのが集団の作品作りです。

 

柳宗悦と出会った影響で

 

作品は一人で作ると言った従来の考え方ではなく

 

他の作家達と共同で作業すると言うことを学び

 

量と質の2つを両立させてきました。

 

 

精神と技法
「用の美の精神」とは

 

陶磁器は観賞用として存在するのではなく

 

誰もが手に入りやすく

 

生活の中で使いやすく、馴染めるもの。

 

言わば日用品として

 

上質なものを作るべきと言った信念です。

 

 

飛び鉋について

 

飛び鉋は生乾きの状態の素地を回転させながら

 

化粧土を削って模様を付けます。

 

なお回転の速度などでも模様の形が変わります。

 

 

櫛描きについて

 

櫛描きもまた素地に模様が付けられる状態の内に

 

櫛状の道具を用いて波形の曲線を引いていきます。

 

 

スリップ・ウェアについて

 

化粧がけとも言われる焼成技術の事です。

 

水と粘土で作った泥漿を文様として掛けます。

 

またその上から鉛釉(ガレナ釉)も掛け低温度で焼きます。

 

イギリスやドイツで代表される陶磁器でもあり

 

「用の美の精神」を体現しているとも言われています。

 

 

 

 

バーナード・リーチは昭和36年に

 

文化勲章受章を受賞しています。

 

その2年後に氏は亡くなりますが

 

日本にいる時は後輩の指導にも力を入れており

 

大きな功績を残しました。

 

バーナード・リーチの思想は

 

後年の作家達にも伝えられています。

 

 

 

川喜田半泥子【文化勲章】

川喜田半泥子(かわきたはんでいし)

 

三重県を代表する文化勲章受章者である

 

川喜田半泥子。

 

ここでは氏の来歴や

 

作品を中心に紹介します。

 

 

来歴

 

川喜田半泥子は明治1111月に

 

三重県津市にて生まれました。

 

また実家は三重県の中でも偉大な地位を持ち、

 

200年以上の歴史がある豪商として有名です。

 

そう言った、不自由なく文化に接する事の出来る

 

環境もあってか、川喜田半泥子は

 

経済や芸術、食関係にも精通しており

 

交友関係も広かったと言われています。

 

もちろん陶芸にも造詣が深く

 

幼少時から、古くから使われている茶道具で

 

茶を飲んでいた事が

 

陶芸家としての原点とも言われています。

 

また、川喜田半泥子は企業人としても

 

功績を残しました。

 

様々な世界経済の危機を

 

三重県津市に構える百五銀行の重役として乗り切り

 

さらに県議経験もあります。

 

なお陶芸家としての実績も称えられていますが

 

彼自身は陶芸を趣味と捉えており

 

販売などは行っていません。

 

 

作品

 

販売を前提としないのもあってか

 

川喜田半泥子の作品の特徴は

 

自由で何も縛りがなく、独創性に富んでいる

 

と言われています。

 

また使っても飽きる事がなく

 

色使いやラインが穏やかで

 

川喜田半泥子自身の性格を

 

反映しているようだとも言われます。

 

代表作としてはまず

 

『麗手茶碗 銘 雅茶子(がちゃこ)

 

を取り上げる事が出来ます。

 

上野動物園のゾウの花子の足に似ている事から

 

花子がタイにいた時の名前

 

(ガチャコ)から命名しています。

 

他には『黒織部茶碗 銘富貴』

 

『刷毛目茶碗 銘 これはこれは』などがあります。

 

 

技法

 

川喜田半泥子は自宅に窯場を作り

 

様々な陶磁器をベースに技法を組み合わせて

 

作品を作りました。

 

例えば薄い黒無地の茶碗である瀬戸黒。

 

佐賀県北西部発祥である唐津。

 

朝鮮王朝時代に生まれた粉引など。

 

それらに色絵や刷毛目などの技術を織り交ぜました。

 

 

 

 

川喜田半泥子は昭和38年10月に息を引き取りましたが

 

陶芸作品にみられるその自由な作風の理由は

 

元々が陶磁器のみに縛られた制作活動ではなく、

 

様々な文化に触れやすかったからとも考えられます。

 

 

 

板谷波山【文化勲章】

板谷波山(いたやはざん)

 

板谷波山はアール・ヌーヴォーの様式を

 

陶磁器に取り入れた文化勲章受章者です。

 

昭和初期には長寿祝いとして

 

故郷の高齢者全員に鳩杖を作り贈呈。

 

また日中戦争や太平洋戦争の戦没者の遺族の為に

 

白磁香炉や観音像も作って送っています。

 

ここではそんな板谷波山の来歴と作風

 

そしてよく見られる技法を中心に紹介します。

 

 

 

来歴

 

板谷波山は明治53月に

 

茨城県下館市にて生まれました。

 

元々は醤油醸造業を営んでいる家ですが

 

父の善吉が風流と言って

 

品の良い文化や陶磁器などを楽しんでいました。

 

明治22年には東京美術学校彫刻科に入学。

 

卒業してからも石川県工業学校にて

 

彫刻科教師として働くなど

 

陶芸とは無縁でしたが、明治31年に

 

彫刻科が廃科になった事により

 

陶芸の研究を本格的に行いました。

 

明治39年には三方焚口の倒焔式丸窯を作り

 

陶芸家として基盤が整います。

 

 

陶芸家としての主な経歴の一部としては

 

明治40年東京勧業博覧会にて三等賞を獲得。

 

独自の作風は支持され続け

 

昭和4年には文部大臣認可の

 

帝国美術院会員となり

 

昭和28年には文化勲章を受章ました。

 

陶芸家としては初めての文化勲章となります。

 

そして10年後となる昭和38年に

 

この世を去りました。

 

 

 

特徴

 

板谷波山の作品は釉下彩や

 

薄彫図柄の技術葆光彩磁などによ

 

り端正でまた気高い気品があると言われています。

 

さらに日本の技術に乗っ取った絵付けは行わず

 

アール・ヌーヴォーの様式を採用したり

 

また東洋の意匠や造形とも融合させた

 

自由な作風が特徴となっています。

 

 

 

技法

 

板谷波山の作品でよく使われる

 

3つの技法について説明します。

 

 

アール・ヌーヴォー

 

19世紀末に欧州エリアから広まった主流のことで

 

流れるようなタッチで植物などを描いています。

 

 

葆光釉(ほこうゆう)

 

葆光釉は今までの透明釉だった彩磁とは違い

 

炭酸マグネシウムによる

 

透明ではないシルクのような釉の事を指します。

 

板谷波山はその葆光釉を

 

独自に編み出しました。

 

その表現からは柔和かつ一種の冷たさも感じられる

 

と言われており

 

動植物を器に配した事もあって

 

洋画らしい作品世界が表現できる

 

と言われています。

 

 

釉下彩

 

釉下彩とは素焼きの生地に

 

絵付けをする技法のことです。

 

染付や鉄絵、釉裏紅なども有名で

 

絵画の作品でも見られる手法でもあり

 

「瓢池園」が有名です。

 

上絵付とは違って高温で一気に焼き

 

また素焼きの状態だと凸凹しているため

 

繊細な絵付けは難しく、まして焼成に耐えうるのも

 

困難と言われています。

 

しかし板谷波山はこれらの課題をクリアし

 

色鮮やかな作品を作り上げました。

 

 

 

 

 

現在、板谷波山の作品は

 

板谷波山が住んでいた家を改築した

 

板谷波山記念館で見ることが出来ます。

 

また作品を収集していた夫妻が亡くなったのを受けて

 

その長女が市に寄贈しています。

 

地元に根付いた活動を行っていた功績が認められ

 

板谷波山は現在でも人々に親しまれています。

 

 

 

吉田美統【陶芸/釉裏金彩】

吉田美統(よしだみのり)

 

吉田美統は

 

元々持っている赤絵金襴手の技術だけでは

 

満足せず、釉裏金彩の技術も取得し

 

2001年に人間国宝に認定された陶芸家です。

 

ここでは赤絵金襴手と釉裏金彩についても交えながら

 

氏を紹介します。

 

 

来歴

 

吉田美統は1932年に

 

石川県小松市にて長男として生まれました。

 

元々が昭和初期から26年間営んでいる

 

九谷焼窯元の育ちでしたが

 

1941年に父である清一が

 

病気で他界してしまいます。

 

吉田美統は1951

 

石川県立小松高等学校に在学していた時点で

 

錦山窯を継ぎ、その26年後となる

 

1972年から釉裏金彩の技法で

 

作品作りを行うようになります。

 

7年後の1979年には

 

釉裏金彩鉢外務省買上作品に選定されました。

 

そして2001年には釉裏金彩の技法によって

 

国の無形文化財として

 

人間国宝に認定されています。

 

 

 

釉裏金彩について

 

吉田美統は釉裏金彩と言う手法を用いて

 

遠近感を表現しています。

 

金絵の具を筆で器に塗るのではなく

 

金箔を焼き付けることでデザインします。

 

また焼き付けてから透明釉を塗ることで

 

より一層、綺羅びやかな色の魅力が引き立ちます。

 

ちなみにこの釉裏金彩は

 

吉田美統が第一人者と言われていますが

 

吉田美統曰く竹田有恒の作品で

 

目にした事がきっかけとの事です。

 

吉田美統が生み出した釉裏金彩は

 

30年以上の月日をかけ研究した事で

 

作品の美しさや技術が向上され

 

竹田有恒とは違う釉裏金彩の方向性を

 

生み出しています。

 

発表当時は既に竹田有恒が確立していた為

 

評判は芳しくなかったようですが

 

独自に研究を進めた事で

 

竹田有恒とは技法から異なり

 

金箔の鮮やかさがより出ていると

 

称されるまでとなりました。

 

 

また今までの金彩は

 

使っている内に剥がれてきたのに対して

 

釉裏金彩は釉薬を塗っている為に

 

剥がれの防止策にもなっています。

 

 

 

吉田美統の代表作

 

吉田美統の代表作と言えるのが

 

大山蓮花文鉢です。

 

大山蓮花で戯れる小鳥を

 

釉裏金彩の技法を駆使して表現しています。

 

また気高い雰囲気も感じられるのが

 

大山蓮花文鉢の特徴です。

 

 

 

赤絵金襴手について

 

九谷焼で使われている

 

赤絵金襴手の技術について紹介します。

 

赤絵金襴手とは赤く塗っている器に

 

金色の細かい描き込みをする技術の事です。

 

赤色は滲みにくく

 

またその細かい描き込みで

 

華やいだ雰囲気と

 

繊細さを併せ持つ作風となります。

 

また赤絵金襴手は

 

その技術を使いこなすには難易度が高く

 

それを体得していたのも

 

九谷焼を作っていた吉田美統のルーツならでは

 

とも言えます。

 

 

ちなみに赤絵金襴手だけではなく

 

黄地金襴手や白地金襴手、

 

瑠璃地金襴手や萌葱地金襴手

 

と言った下地のバリエーションがあります。

 

 

 

吉田美統の現在

 

吉田美統は現在

 

日本工芸会正会員を務めています。

 

彼の取得した技術の数々が

 

日本の工芸品に

 

多大な恩恵をもたらしているのは

 

間違いありません。

 

 

 

五代 伊藤赤水【人間国宝/無名異焼】

五代 伊東赤水(いとうせきすい)

 

伊藤赤水は2003年に

 

重要無形文化財保持者として

 

人間国宝に認定されました。

 

ここでは伊藤赤水の歴史を

 

そのルーツと織り交ぜて紹介します。

 

 

無名異焼と赤水

 

伊藤赤水の制作する無名異とは

 

日本では佐渡金山の一帯でしか採れない

 

赤土の事です。

 

この無名異は焼き方によって色が変わりますが

 

明治時代からしばらく黒色となった時は

 

欠陥扱いとされていました。

 

その頃の日本は中国の朱泥に強く憧れを持っており

 

無名異はその鮮やかな色合いを目指して

 

焼かれたものだったので

 

黒色になれば言わば「失敗」と言えたのです。

 

ところが伊藤赤水は

 

無名異の赤の魅力を立てるのには

 

この失敗といえる黒を使うべきだと考え

 

無名異の赤と黒を使った

 

窯変壷を完成させました。

 

しばし自身の作品に

 

改革を促すような挑戦を続ける赤水の作品において

 

無名異による作品作りは

 

「逆転の発想」とも言われています。

 

窯変壷は赤と黒のコントラストが美しく

 

1972年に日本伝統工芸展に初入選となりました。

 

 

 

窯変壷から進化した「練上」

 

窯変壷の名誉は入選だけでは終わらず

 

1980年には日本伝統工芸展において

 

奨励賞を獲得しています。

 

ただ窯変壷は上が黒、下が赤と言う

 

ある種シンプルと言える見た目でした。

 

しかしその4年後となる1984年には

 

黒と赤の2色でありながらも複雑な模様を付けた

 

「練上」が完成しています。

 

「練上」は一年後の1985年に

 

8回日本陶芸展において

 

最優秀作品賞を受賞しました。

 

 

 

無名異から離れた作品作り

 

こうして伊藤赤水の名声は

 

無名異によって獲得したと言えます。

 

しかし赤水は無名異とは全く違う

 

作品作りのアプローチを試みるようになります。

 

それが2009年に発表した

 

佐渡の岩石を作った「佐渡ヶ島」です。

 

釉はなく石粒が取り除かれてない土をあえて使い

 

凸凹が目立つ一種無骨と言えるような

 

見た目になっています。

 

この「佐渡ヶ島」は

 

伊藤赤水のルーツを振り返っていると言えます。

 

 

伊藤赤水の作品の始祖ともいえる人物は

 

ゴールドラッシュに湧いた佐渡ヶ島に辿り着いた

 

伊藤伊兵衛です。

 

加賀の出身である伊藤伊兵衛は

 

佐渡ヶ島で陶土を使った送風管を作り

 

また無名異は佐渡金山から出ている事は

 

上で書いた通りです。

 

このように伊藤赤水の作品は

 

佐渡ヶ島に強く結びついているのです。

 

 

 

襲名制で様々な無名異を披露

 

また伊藤赤水の名は襲名であり

 

伊藤赤水(五代目)の本名は

 

伊藤窯一と呼びます。

 

初代の伊藤赤水から四代目の伊藤赤水も

 

無名異を使った作品作りを行っていますが

 

五代伊藤赤水の無名異とは

 

全く違ったアプローチを行っています。

 

初代から三代目は茶褐色の無名異であり

 

初代は楽達磨と言う作品。

 

二代目と三代目も花瓶を作っています。

 

四代目は薄茶色で兎図花瓶と言う兎が描かれた花瓶や

 

蝦蟇仙人も作ったりしていますが

 

色の華やかさとしては五代目が目立ちます。

 

このように伊藤赤水の作品は

 

五代目に限らず

 

様々な各世代の伊藤赤水が

 

自身のルーツと対峙しています。

 

 

 

中里無庵【人間国宝/唐津焼】

中里無庵(なかざとむあん)

 

唐津焼の知名度と隆盛を復活させた中里無庵。

 

氏の足取りと作風などについて紹介していきます。

 

 

来歴

 

中里無庵は1895年、佐賀県唐津市にて生まれました。

 

父の天祐は唐津藩御用窯の御茶碗師の

 

11代目中里太郎右衛門であったこともあり

 

無庵は小学生の頃から既に

 

御茶碗師になる夢を持っていました。

 

しかし当時は有田焼の方の知名度が上で

 

唐津焼は、その影に隠れていました。

 

それでも1914年に

 

佐賀県立有田工業高校別科製陶科を卒業した後も

 

唐津窯業株式会社や

 

唐津煉瓦株式会社への勤務を通して

 

唐津焼に携わりました。

 

1922年には材木商である

 

無津呂家家の養子となりますが

 

5年後の1927年に父の天祐が亡くなったの受けて

 

12代目中里太郎右衛門を襲名します。

 

 

その後も唐津焼の復興に尽力し

 

1969年、長男の忠夫に

 

13代目として中里太郎右衛門の名を明け渡し

 

自身は無庵となりました。

 

そして1976年に人間国宝に認定された後

 

1985年、無庵は 息を引き取りました。

 

 

 

作風と「叩きの技法」

 

中里無庵が注目される点は

 

やはり唐津焼の復興に尽力した所です。

 

1929年に始まった

 

古唐津窯跡発掘調査時に学んだ

 

「叩きの技法」は有名です。

 

「叩きの技法」とは細長い土を重ねてから

 

叩いていく技法です。

 

元は縄文式土器から始まっていますが

 

唐津焼は独自発展を遂げたものとして

 

知られています。

 

「叩きの技法」では内側を叩くことで

 

薄く、かつ丈夫な器となります。

 

もちろん中里無庵の作品作りにも

 

「叩きの技法」が使われており

 

特に「叩き青唐津水指」や

 

「叩き黄唐津壷」などが有名です。

 

 

 

倒炎式角窯について

 

また中里無庵は父が亡くなった後

 

先祖代々から使ってきた御茶碗窯に

 

倒炎式角窯を設けました。

 

倒炎式角窯は熱効率が高く

 

また熱損失も少ないと言った特徴があり、

 

これを作品に活かしています。

 

他に倒炎式角窯内では

 

釉薬をかけたものを焼き

 

冷めにくい性質もある事から

 

柔和な雰囲気を持つ作品が生まれる

 

と言われています。

 

 

 

 

 このように中里無庵は積極的に研究し

 

それに付随する窯や技術などを再現したため

 

唐津焼の権威とも言える存在となりました。

 

特に中里無庵の作った唐津ぐい呑は

 

『東は「セトモノ」、西は「カラツモノ」』

 

と言われていた時代を体現している

 

と言われています。

 

元々、唐津ぐい呑は

 

桃山時代には茶人の間で使われ

 

素朴な雰囲気と可愛らしい絵唐津で

 

好評を博しました。

 

そして中里無庵の作った唐津ぐい呑は

 

絵唐津ではないものの

 

唐津の要素と中里無庵の技術が

 

詰まっていると言われ

 

唐津ぐい呑も70以上の唐津焼の窯元が

 

唐津市内に復活するまでに至りました。

 

 

 

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