青山熊治(あおやまくまじ)
青山熊治は1886年5月に兵庫県生野町で生まれました。
1903年には、イギリスのロイヤル・アカデミーで活躍し
朝鮮美術展にも携わった洋画家の高木背水のもとで
住み込みで学び、肖像画制作の助手を行います。
1904年には東京美術学校西洋画科に入り
外光派のテイストで
優美な雰囲気を兼ね備え作た作品が有名な岡田三郎助。
明治から大正時代を代表する
外光派の黒田清輝からも教えを受けます。
また、在学中である1907年に東京勧業博覧会の場で
『老坑夫』を出品し、2等賞を受賞。
3年後の1910年には『アイヌ』で
白馬賞を獲得するなど受賞を重ね続けます。
そして1914年にヨーロッパを渡ると
8年以上もの間、現地で活動し
本場の絵画を学んでいきました。
その後1926年に『高原』により
第7回帝国美術院展覧会で特選、
及び帝国美術院賞を獲得。
帝国美術院展覧会の場では大作を発表したり
審査員を務めるなどします。
1932年12月に息を引き取ります。
作風
青山熊治の作品が語られる時、
ヨーロッパでの旅を経てからの作品発表は
よく注目されています。
金銭面での苦労を強いられながらもポール・セザンヌや
ピエール=オーギュスト・ルノワール、
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ
と言った作家達に学び独自の世界観を確立。
西洋絵画に対する強い理解から、
斬新な色彩感覚と構図が生まれ
これらは第7回帝国美術院展覧会での
横幅3m以上もある作品『高原』としても作られ、
大きな話題となりました。
なお同じ様に生野町生まれで活躍した
白滝幾之助と和田三造の二人の画家と合わせて、
“生野三巨匠”と称されています。
そして作品は精神性をも感じ取れると言われており
如何に青山熊治の作品が
強く支持されているかが分かります。
■ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ
19世紀に活躍したフランス人画家です。
印象派や写実主義が主流の当時、
どちらにも傾倒しない独自の画風を確立しました。
1824年に織物業を営む家に生まれましたが
若い頃に病になり後を継ぐことが
できなくなったことがきっかけで、
画家を志すようになったと言われています。
20代半ばで画家デビューしてから数年は
サロンに落選する日々が続きますが、
徐々に壁画の受注を受けるようになりました。
このことから自身が描く絵の色調も
フレスコ画に通ずる部分が多く、
当時絵画で重視された陰影や立体感は抑えられ
落ち着いた雰囲気の作品を多く残しています。
製作中の九大壁画が遺作となる
青山熊治は1930年に九州大学に飾る壁画の作成を開始
またその作成期間中でもある1932年、
兄の為に生野町にいる時に亡くなってしまいます。
九大壁画の内容としては
産業の五大要素について描かれており
また悠久の刻をも表現しています。
なお九大壁画は完成に近い状態だったようですが
本人としては最後まで描きたかったと思います。