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2019.01.31
骨董品

西山翠嶂【帝室技芸員/日本画】

西山翠嶂(にしやますいしょう)

 

1879年、日本画家の西山翠嶂は京都で生まれました。

 

14歳のときには戦前の京都の画壇の重鎮である

 

竹内栖鳳に弟子入りを果たします。

 

また竹内栖鳳からは娘を貰い、

 

京都画壇の場でも活躍しました。

 

やがて50代半ばの頃には母校である

 

京都市立美術工芸学校にて校長を務め、

 

また1921年には画塾の青甲社を設立するなど

 

後輩の指導にも力を注ぎます。

 

そして1944年、65歳のときに

 

帝室技芸員として認定されました。

 

 

 

画風と京都画壇での立ち位置

 

西山翠嶂の作品の特徴は、

 

師匠の竹内栖鳳から受け継いだ軽やかな雰囲気の

 

人物風景画でもあり、

 

また竹内栖鳳からの教えを発展させて

 

洗練された雰囲気の作風に昇華させていきました。

 

1907年の第1回文部省美術展覧会で出した

 

「広寒宮」にもその作風は現れ、

 

月の世界の宮殿を描いた「広寒宮」は三等賞を獲得し

 

以後、受賞を重ね続けていきます。

 

また1919年から始まった帝国美術院展覧会においては

 

審査員としても選ばれました。

 

西山翠嶂は竹内栖鳳がこの世を去った後も

 

京都画壇を盛り上げ、京都画壇を代表する顔として

 

存在感を確立させるようになっていきます。

 

 

 

活動背景

 

■京都画壇について

 

明治以降の京都の美術界を指します。

 

やまと絵の派生である土佐派や、円山応挙の円山派と

 

呉春の四条派の2つを現す、四条円山派が生まれました。

 

明治期に活躍した京都画壇の画家としては

 

今尾景年や鈴木松年などがいます。

 

また師匠との結び付きが強いとも言われており、

 

西山翠嶂が竹内栖鳳から娘を貰い受けたのも、

 

その為とも考えられます。

 

 

■青甲社

 

1921年当時に、約40人の塾生がいた事で知られています。

 

青甲社出身の作家としては、「星五位」や

 

「樹下幽禽」で知られる上村松篁。

 

「雨後」や「弘法大師」で知られる森守明。

 

「裏磐梯」や「天壇」の西山英雄などがいます。

 

 

 

存在感を確立させた西山翠嶂

 

京都画壇を代表する顔として

 

存在感を確立させた西山翠嶂。

 

その存在の大きさは

 

作品発表で盛り上げてきただけでなく、

 

後進の指導を積極的に行った所からも

 

伺うことが出来ます。