1879年、日本画家の西山翠嶂は京都で生まれました。
14歳のときには戦前の京都の画壇の重鎮である
竹内栖鳳に弟子入りを果たします。
また竹内栖鳳からは娘を貰い、
京都画壇の場でも活躍しました。
やがて50代半ばの頃には母校である
京都市立美術工芸学校にて校長を務め、
また1921年には画塾の青甲社を設立するなど
後輩の指導にも力を注ぎます。
そして1944年、65歳のときに
帝室技芸員として認定されました。
西山翠嶂の作品の特徴は、
師匠の竹内栖鳳から受け継いだ軽やかな雰囲気の
人物風景画でもあり、
また竹内栖鳳からの教えを発展させて
洗練された雰囲気の作風に昇華させていきました。
1907年の第1回文部省美術展覧会で出した
「広寒宮」にもその作風は現れ、
月の世界の宮殿を描いた「広寒宮」は三等賞を獲得し
以後、受賞を重ね続けていきます。
また1919年から始まった帝国美術院展覧会においては
審査員としても選ばれました。
西山翠嶂は竹内栖鳳がこの世を去った後も
京都画壇を盛り上げ、京都画壇を代表する顔として
存在感を確立させるようになっていきます。
■京都画壇について
明治以降の京都の美術界を指します。
やまと絵の派生である土佐派や、円山応挙の円山派と
呉春の四条派の2つを現す、四条円山派が生まれました。
明治期に活躍した京都画壇の画家としては
今尾景年や鈴木松年などがいます。
また師匠との結び付きが強いとも言われており、
西山翠嶂が竹内栖鳳から娘を貰い受けたのも、
その為とも考えられます。
■青甲社
1921年当時に、約40人の塾生がいた事で知られています。
青甲社出身の作家としては、「星五位」や
「樹下幽禽」で知られる上村松篁。
「雨後」や「弘法大師」で知られる森守明。
「裏磐梯」や「天壇」の西山英雄などがいます。
京都画壇を代表する顔として
存在感を確立させた西山翠嶂。
その存在の大きさは
作品発表で盛り上げてきただけでなく、
後進の指導を積極的に行った所からも
伺うことが出来ます。