荒木寛畝は、1831年に江戸芝赤羽橋(港区)で
田中梅春の四男として生まれました。
代々田中家は増上寺の行者を勤めていましたが
荒木寛畝は9歳の時絵師荒木寛快の門下に入り、
22歳の時に師から画才が認められ養子となり
荒木姓を継いでいます。
そして1859年、荒木が28歳の時には
土佐藩の御用絵師となりました。
その後荒木寛畝は、1872年に
湯島聖堂で開催された博覧会で
内田政雄の油彩画を見て感銘を受け、
後に川上冬崖、チャールズ・ワークマン、
国沢新九郎らから洋画を学び始めます。
48歳のときには、元老院から明治天皇、
昭憲皇太后、英照皇太后の御影を描く大任を
任されるほどとなりました。
そして再び日本画を描き始めようになると
1881年には第2回勧業博覧会で油彩画の「耕作の図」
「養蚕の図」を出品したのに対し、
翌年の第1回内国絵画共進会では日本画で
「花鳥」、「古代人物」を出品しています。
日本画と油彩画のどちらの才能にも長けた荒木は
その後、第2回パリ府日本美術縦覧会に「孔雀」、
「雪中三顧」を出品
同年の第2回内国絵画共進会では「太真王夫人」、
「花鳥」を出品して銅賞を受賞、
この時には審査委員も務めました。
そのほか第3回内国勧業博覧会では
「孔雀図」が妙技二等賞を受賞して
宮内庁の買上げ作品となるなど、
多くの賞を受賞しました。
その後60代の時には
女子高等師範学校や華族女学校の教授に就任し
教鞭をとっています。
これらの功績が認められ、1900年、69歳のときに
帝室技芸員に任命されました。
また、同年パリ万国博覧会で「孔雀図」が銀牌を受賞、
1905年には第1回文展では審査員も務めています。
そのほか従五位、勲六等瑞宝章も授与されるなど、
日本の画壇でその地位を不動のものとしました。
荒木寛畝の作風は伝統的な南北合派の
画法を基にしたものでありながら
洋画の写実性も盛り込んだ花鳥画を得意としました。
中でも受賞を重ねた「孔雀図」は
大胆な構図に精緻な筆致を用いて
日本画という位置づけでありながら
洋画の要素も含まれた独自の作風で描かれており
見るものを圧倒するといわれています。
荒木寛畝は日本画の大家でありましたが、
画塾や読画塾を開き後進の育成にも
熱心に携わっていました。
その門人の数は数十人にも及び、
荒木十畝、西沢笛畝、池上秀畝、広瀬東畝、
小林雪岱、三村竹清など
優秀な画家を輩出しています。