税所敦子(さいしょあつこ)は1825年に京都で生まれました。なお父は宮家付武士の林篤国です。父は歌人としても優れており、その影響で幼少期から歌に触れていた税所敦子は、幼くして見事な歌を詠み自身もその上達を望んだことで、歌人の千種有功から学びました。ちなみにこの間には同じく歌人の八田知紀らと交流しています。
その後、20歳の頃になると薩摩(現在の鹿児島)藩士で京都に務めていた税所篤之と結婚。しかしその8年後に税所篤之が亡くなり、子供も失い薩摩へ住むと言った慌ただしい日々を過ごしました。
そこでは文章に優れた能力が認められ、また藩主・島津斉彬の跡継ぎになる哲丸の面倒を任せられます。1875年には明治天皇に御歌所所長として認められた歌人・高崎正風の推薦で、宮中に入ることとなりました。以降は明治天皇と皇后の世話をし、宮中内で働く女性である女官にも歌文を教えていきます。
晩年は体調を崩しながらも天皇に仕え、1900年、76歳で息を引き取りました。
生まれた時から歌人になるには整った環境で、旦那との結婚をきっかけとして薩摩に移住。そこで歌人しても認められ、天皇の傍に仕えるようになった所に特徴があります。
また宮中でも活躍を見せる桂園派との関連性や、絵画にも強いと言った指摘もあります。
税所敦子は忍耐強さのある女性だったと言えるでしょう。
夫の税所篤之は気性が荒かったと言われており、その事を心配されると「夫が激しいのは私のためを思って」と言った趣旨の言葉を返し、友人を涙させたといわれています。
ちなみに税所篤之にとっては後妻にあたります。またその夫が亡くなったことで移り住んだ薩摩にて、“鬼婆“と周りから称されていた姑には冷たい対応を取られるようになりました。
しかしそれについても耐え「仏にもまさる心を知らずして鬼婆ばりと人は言ふらん」と言う言葉も残しました。
その献身的とも言える態度に、税所篤之と姑も絶大な信頼を寄せるようになり、それに税所篤之は歌人としての能力も高く見ていたようです。積極的に行動すると言うよりそのような人格がまず認められ、その次に歌人として高く評価されたと言う見方もされています。
ちなみに活動終盤になると“明治の紫式部“と評価され、亡くなるまで宮中にて務めました。
代表作
1888年に出された歌集『御垣の下草』(上・下巻で早稲田大学図書館が所蔵)。
1905年発表の『内外詠史歌集』(名古屋市蓬左文庫が所蔵)。1853発表の紀行文集『心つくし』(上・下巻で早稲田大学図書館が所蔵)などかあります。
■千種有功(ちぐさありこと)
江戸時代終盤に活躍した歌人で、四条派の画や書にも詳しい人物です。正三位の千種有条の子供で作風も公家歌人の堂上派だったのですが、やがてその系譜を抜け出す作風を提示しました。
■心つくし
税所敦子が京都から薩摩に渡った際の旅について綴ったもので、明治から大正までの女性達のバイブルとなっています。