田辺三重松(たなべみえまつ)
田辺三重松は1897年9月に北海道函館にて
呉服商の息子として生まれました。
函館商業学校の在学中に
図画教師として務めていた日本画家で
『義経蝦夷渡り伝説絵馬』が知られている
北條玉洞から教わった事で、
画家になる事を決意します。
同校を卒業後も家事手伝いを行いながら
絵画制作は続行し、1921年に函館では初となる
美術団体の赤光社の設立に参加。
しかし家業を畳み以降は小学校教師として務め
その時期となる1928年に二科展において
作品の『荷揚げ場』や『花道』を初出展し
入選となります。
また1934年に新美術家協会会員に選ばれるなど
画家として名が売れるようになると
同時に教職を辞めて制作一本に打ち込みました。
1842年に『岬の午後』などが二科賞となり
1943年に二科展の会員として参加。
ちなみに戦前最後の二科展メンバーともなります。
1945年には行動美術協会と
全道美術協会の立ち上げに参加。
また1950年代から
それまで函館の風景を描いていたのに対し、
道央や道東などのエリアも視野に入れていきます。
その後1957年に東京に移り住み、また1960年には
『昭和新山』が文部省買い上げとなるなど
活躍を続け、1971年12月に息を引き取りました。
作風
田辺三重松は活動初期は独学の部分が大きく、
水彩画と洋画の技術を自身で身に付け
北海道美術展で作品を出品しています。
1928年に二科展で受賞をした頃には、
フォービズムを感じさせる作風で発表。
その時は確かな写実性と
穏やかな色彩感覚で知られている石井柏亭。
日本の風土がありながらも、
現代風に仕上げた安井曽太郎から教わっています。
全般的には壮大な北海道の景色を
思い切った構成で力強く描いている事で知られており
それは写真は使わず現地に赴いて
スケッチをした所からも、起因している
と考えられます。
また1967年にはスケッチ中の事故により
右目の視力を失いますが、
それでも創作意欲は失う事はなく、
活動終盤時期にはアメリカやヨーロッパにも
実際に訪れ、力強い作風を残していきました。
関連用語の細かい解説
・赤光社
1921年に設立。
最初は「アポロ美術会」と言う名称で
設立予定となっていました。
また他に赤光社の主なメンバーとしては
フランス在住の日本人画家の先駆けと言われ
貫徹した現場主義で知られている蛯子善悦がいます。
・行動美術協会
戦争を機に解散となった二科会が再び立ち上がる際
今までの二科会とは違う事に
抵抗を示したメンバーで結成されました。
他には向井潤吉や榎倉省吾、
古家新などが加わっています。
・全道美術協会
1945年に北海道住んでいる
21名の芸術家によって設立。
現在も活動しており170人ほどのメンバーがいる
大所帯となっています。
北海道の画壇を盛り上げた田辺三重松
田辺三重松の作品は
北海道立函館美術館で見る事が可能です。
また自身が発言した言葉も残っており
これらで北海道の画壇を盛り上げた
田辺三重松の思いを感じ取れます。
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