浅野長祚(号は梅堂、潭など)は、1816年に東京で生まれました。播磨国(現在の兵庫県)浅野の分家でもあり、父は旗本の浅野長泰です。この父から浅野長祚は、幼い頃より和歌や漢詩、俳句などを習い、その影響からか、20代半ば頃には幕府の学問所の拡大に努めるなどしています。
1847年からは浦賀奉行に約5年間務め、やがて、京都町奉行を任せられるようになりました。その際には京都とその周りのエリアである、洛中洛外の山陵調査をして『歴代廟陵考補遺』を記しています。政権争いに巻き込まれるなどして、40代前半の頃には一時期免職となりますが、その原因ともなった井伊直弼の没後、再び奉行所勤務となりました。
晩年は隠居しながら書画や詩文の制作に没頭し、1880年、65歳で息を引き取っています。
浅野長祚は役人として勤めていましたが、文人画家として見られることも少なくありません。
文人画家とは職業として画家を務めているわけではない人が、その豊富な知識で趣味として画を描いていることを指します。南画系(中国の山水画である南宗画を日本で取り入れたもの)として、花卉画なども描きました。
ちなみに浅野長祚は、1868年に起こった明治維新以降からは政府内での役職に就いていませんが、亡くなった時には政府内勤務の官職に送られる名誉である、位階の中から正五位を授かっています。
また、中国の明・清時代の書画のコレクターとしても知られており、それをまとめた『漱芳閣書画記』もあります。
文人画家としては渡辺崋山派と言われていますが、これは浅野長祚が日本画家の椿椿山から教わっており、また椿椿山が渡辺崋山の画塾で学んだからとされています。
椿椿山や渡辺崋山と比べても、浅野長祚は現在はそれほど名が知られていないかもしれません。ですが渡辺崋山の系譜としても、また日本の文人画家としても、浅野長祚の作品はその一環を知れる貴重な資料でもあるのは間違いありません。
代表作
『果蔬図』(東京国立博物館が所蔵)や、書画について詳しい事から1860年に出している画論『漱芳閣書画銘心録』などがあります。
■椿椿山(つばきちんざん)
幕府槍組同心の生まれで自身も同職に努めますが、すぐに辞職し、画業や学問に集中することを選択すると、金子金陵や渡辺崋山から教わりました。
柔らかなタッチと穏やかな色彩感覚が持ち味で、特に肖像画と花鳥画を得意としていますが、渡辺崋山の遺族の面倒を見るなど性格的にも優れた人物と言われています。
なお浅野長祚の母である『浅野梅堂母像』を描いています。
■渡辺崋山(わたなべかざん)
現在の愛知県に属する田原藩出身で、自身も田原藩の家老として務めていました。また蘭学者としても知られた存在です。文人画家の一人でもありますが、家系が圧迫していた事から幼少期は絵を売って支えていました。
谷文晁から画について教わり、また西洋画の遠近法や陰影法を作品内に取り込むなどして、肖像画を手掛けています。
しかしアメリカとの争いである蛮社の獄の際に、藩主への影響を考え自害しました。