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2018.07.26
骨董品

河井寛次郎【人間国宝/文化勲章 辞退】

河井寛次郎(かわいかんじろう)

 

自身がきちんと納得のいく作品ができるまで

 

個展を開かないなど、強い信念を持って

 

作品を作り続けた河井寛次郎。

 

ここではその半生や作品の特徴を紹介します。

 

 

来歴

 

河井寛次郎は明治238

 

島根県安来市にて生まれました。

 

元々生家は大工を営んでいたのですが

 

寛次朗自身は中学の頃から焼き物の世界に興味を持ち

 

明治43年、東京高等工業学校窯業科に入学します。

 

卒業後は京都市立陶磁器試験場に技師として働き

 

大正9年には陶芸家の5代目清水六兵衛から

 

窯を貰うと同時に、住居も構え独立を果たしました。

 

また翌年には初個展も開き

 

中国・朝鮮の古陶磁の影響を強く受けた作品を発表します。

 

昭和30年には文化勲章を辞退。

 

同時に人間国宝の認定も退き昭和41年にこの世を去りました。

 

 

作品の特徴

 

河井寛次郎の作風は

 

次の3つの時代に大きく分かれると言われています。

 

一つが中国・朝鮮の古陶磁の手法を取り入れた時代です。

 

河井寛次郎自身が研究し、「寛」や「鐘渓窯」の押印。

 

箱には「鐘寛」や「鐘渓窯」と言った文字が

 

記入されているのが特徴です。

 

その次が、実用性は変わらず

 

生命の力強さを描いた作品です。

 

民芸の主唱者と知られている柳宗悦との交流が

 

その時代の作風に影響を与えたのでは、

 

と言われています。

 

もう一つが戦後昭和20年以降の

 

釉薬を使った色鮮やかな作品です。

 

それでいて重厚さもあり、今度は実用性よりも

 

自身の自由な創作性を重視している事で

 

知られています。

 

 

「暮しが仕事、仕事が暮し。」

 

中国・朝鮮の影響を受けた作風時代から

 

既に評判を呼び、

 

「名人芸」とも言われていた河井寛次郎。

 

力強い作品の数々を生み出す氏は

 

「暮しが仕事、仕事が暮し。」

 

と言う言葉を残しています。

 

自分の日常の一部として

 

モノ作りを行っているだけであって

 

何も特別な事ではないと言うのが

 

言葉の真相と言われています。

 

 

実際に重要無形文化財保持者や

 

文化勲章を辞退しているのは

 

そこに理由があるとも考えられ

 

後期の作品には自身の作家銘を入れていません。

 

 

 

なお河井寛次郎は京都にて作品を発表するようになり

 

自宅も建てています。

 

現在は「河井寛次郎記念館」となり

 

氏の辿ってきた道筋や作品が知れるようになっています。