榊原紫峰は1887年8月に京都府京都市で生まれました。なお本名は安造と言います。実家は染色図案の画家を手掛けており、それに兄や弟達も日本画家として活躍している芸術一家です。1907年に入学していた京都市立美術工芸学校を出て、1911年にはその後に学んでいた姉妹校である、京都市立絵画専門学校を卒業します。京都市立絵画専門学校の在学時である1910年に『ながき日』を第4回文部省美術展覧会の場で展示。それに1911年の同展の第5回で出した『花曇り』などで入選となり、京都画壇の新しい顔として注目されていきました。
ところが1914年からは落選が続き、また1917年の第11回の場で出した『梅雨霽れ』は高評価だったのにも関わらず、同様の結果となってしまいます。そこで文部省美術展覧会の審査基準に日頃不満を抱えていた榊原紫峰は、自由な作品の発表の場として同じ京都市立絵画専門学校の仲間達と共に、1918年に国画創作協会を立ち上げました。やがて1928年に国画創作協会が解散となってから展覧会での出品は止め、小さな作品の水墨画を発表していきます。また一旦公の場から離れると姿を見せなくなる画家もいるのですが、榊原紫峰の場合は1937年に京都市立絵画専門学校にて教授を務めるなど、後進の指導にも尽力しました。
1939年には第3回文部省美術展覧会の審査員となり、1948年には京都市立美術専門学校の客員教授となるなどして後進の指導に尽くし、そして1962年に日本芸術院賞恩賜賞を受賞すると言ったように、その功績は展覧会から一旦離れた後でも大いに認められていきます。
榊原紫峰は四条派をベースとし、中国の宮廷画のテイストを入れた古典的で大きなスケールの花鳥画に注目がなされています。
また中国の宗や元時代の花鳥画に影響があるとも言われていますが、西洋絵画で見られた写実性にも榊原紫峰は挑戦しており、新しい内容の作品に朝鮮する気概や自然に対する愛情も作品からは受け取られるのです。
榊原紫峰の生まれた家庭環境はとにかく貧しく、近所からも差別の目で見られていたようです。よって自然への愛着に目を向けるようになったから、これらの作品が生まれたのでは?と言われています。
それと榊原紫峰は『紫峰花鳥画集』や『花鳥画の本質』と言った著書も残しているので、考えに触れやすいと言う良さがあります。
■他の代表作
1918年の第1回国画創作協会展にて発表の大作『青梅』。樹木を立体的に描きながらも西洋絵画と中国絵画から学んだことが感じられると言われています。それと1920年発表の『奈良の森』や翌年に出した『雪柳白鷺図』などがあります。
■国画創作協会
1918年に京都市立絵画専門学校の他の在学生であった土田麦僊や村上華岳。小野竹喬や入江波光と共に結成されました。
新しい表現の場として活動していきましたが、経済状態は良くなく、榊原紫峰の妻や他のメンバーも亡くなったりなどしています。
■京都府画学校と京都市立絵画専門学校
江戸時代から活躍した日本画家の幸野楳嶺によって、1880年に京都府画学校が設立されました。その後も幾度も名を改めまた同じ幸野楳嶺の手によって1909年に京都市立絵画専門学校が設立されました。ちなみに京都府画学校は日本で初めての公立絵画学校であり、前述の通り京都市立絵画専門学校は姉妹校です。