手島右卿(本名は手島南海巍)は、1901年に高知県安芸市で生まれました。14歳の時に、同じく安芸市出身の書家・川谷尚亭の弟子となり、以降は師のもとで学んでいきます。1933年には南海書道会を設立し、競書誌の『南海書聖』を編集。30代になった頃には師の川谷尚亭がこの世を去り、一方で手島右卿自身が新しい書の在り方を考えていた事からまもなく上京しました。以降は現代書の父と呼ばれる比田井天来から学ぶようになります。
また同じく1935年には比田井天来の弟子・上田桑鳩が開く書道芸術社の同人となり、1937年の第1回大日本書道院展では、作品『光明皇后楽毅論』を発表し特別賞を受賞。これをきっかけに書学院の教授にも任命され、2年後には蒼龍社を立ち上げ『尚亭先生書話集』の発行に携わるなど活躍の幅を広めていきました。1947年には書道芸術院を立ち上げ、総務理事として就任。1952年には独立書道会を設立するなど、日本の書道界に大きく貢献しています。
自身の作品制作と発表も多くこなしており、1955年には欧州とアメリカの巡回展に作品を出品。3年後のブリュッセル万博展で行われた、近代美術の50年展では日本代表の一人として参加するなど、国際的な活躍も見せていきました。国内でも、書道界では初となる毎日芸術賞の受賞や個展の開催を成功させ、80代で文化功労者として認定されています。
晩年まで展覧会の開催には力を注ぎ、1987年、85歳で息を引き取りました。
手島右卿は文字の濃淡や形に個性の表れた作品が多く、それがまさに手島右卿の作品の特徴といえるでしょう。非常に濃かったり、その反対にかなり淡い墨使いの両方よる技法。また少字数書と呼ばれる技法も、手島右卿の代表的な作風といえます。
手島右卿はこの技法を象書と名付けてライフワークとしました。
特徴的な手島右卿の作風も、その基礎は師である川谷尚亭や比田井天来から影響を受けています。
手島右卿は1952年には独立書人団を立ち上げ、自身も後進の指導にあたりました。ただ非常に厳格な先生だったと伝えられており、その容姿もあって「ライオンの右卿」とも呼ばれていました。またその一方で、「昭和の三筆」と称されるほど評価されており、現代書道の代表的作家としても存在感を放っています。
他の代表作
1955年に3回独立書道展で発表し、最高殊勲金星となった『抱牛』(東京国立近代美術館が所蔵)
1957年の第4回サンパウロ・ビエンナーレの場で発表された『崩壊』などがあります。
■比田井天来(ひだいてんらい)
古碑法帖を深く研究し、天来書院を立ち上げるなどしました。
『書は芸術である』と言う信念で現代書道の道を切り開き、上田桑鳩や金子鴎亭も育てています。
■川谷尚亭(かわたにしょうてい)
明治後半から昭和前半まで代表する書道家です。40代後半の若さで亡くなったのもあって作品数は少ないのですが、清らかな雰囲気が特徴といえる作品は、現代でも強い支持がなされています。