幸徳秋水(こうとくしゅうすい/本名は伝次郎または傳次郎)は1871年9月に高知県で生まれました。実家は薬種や酒造を展開する豪商として知られており、幼い頃から儒教の文献を学ぶなど、周囲にも高く認められています。その後10代後半の頃には上京し、同じく高知県出身で思想家の中江兆民の下で学ぶようになると、師から秋水の号を与えられ、新聞記者を志していきました。
やがて、1893年は自由新聞、1898年には万朝報と言ったように、幸徳秋水は各所で新聞記者、または思想家としてさまざまな活動を行っていきます。ゴシップ記事や国政・軍に関わる人物たちの批判記事、一方で天皇のご結婚を祝福する記事などを手がけたことで各方面に影響を与えていきました。
以降、1901年に社会民主党を立ち上げますが、弾圧によってすぐに解散。同年、足尾銅山鉱毒事件の際には田中正造が天皇にあてた直訴状の下書きを手掛けるなどしています。30代になると、日露戦争に強い反対の意志を示すために堺利彦らと共に平民社を設立し、平民新聞を発行しますが、翌年1904年に発行した『共産党宣言』の翻訳書などが発行禁止処分となりました。
これらを受けて幸徳秋水は34歳の頃に入獄。この間にはロシア人革命家のピョートル・クロポトキンの思想に触れたことで無政府主義の考えを強くし、出獄後まもなくアメリカに渡っています。現地でまさに無政府共産制を目にし刺激を受けると、次の年には帰国しアメリカに住む日本人と共に社会革命党を設立。その後も自身の主張を記した書籍を発行するもすぐに発行禁止になっていますが、党としての活動は続けていきました。
しかし、1910年に天皇暗殺の濡れ衣を着せられ、政府に反感を示す者たちと共に入獄。
実際に関与していた可能性は薄いとされていますが、それまでの社会主義的活動が睨まれ、1911年4月に処刑という形で息を引き取っています。
ちなみに、この一連の騒動は大逆事件、または幸徳事件と呼ばれています。
幸徳秋水の書や書簡が遺されています。中には詩の書かれた掛け軸などもありますが、書簡では、いくつかの団体を結成から弾圧での解散を繰り返しても、最後まで当時の日本政府の在り方に反対の立場を貫いた幸徳秋水の活動にまつわる内容が多く、その部分は作品としての特徴といえるでしょう。
最期はまるで凶悪犯のような扱い方をされた幸徳秋水ですが、2000年から中村市議会によって、幸徳秋水をきちんと評価することが決められ命日になると墓前祭が開かれるようになりました。
1892年に始まり、幸徳秋水が参加した『萬朝報』はゴシップ誌の草分け的存在とされています。
また、持っている人は持っているような不平等な利益ではなく、経済を平等に分け合う社会主義者である事。
1905年になるとロシア第一革命の背景もあって、国家などを否定し個人による社会の発展を訴える無政府主義(アナーキズムと言います)となった点にも評価されています。
なお単に政府に対して疑問の声を表現していただけでなく、文章家としても優れていると言った評価もあり、思想の背景には中江兆民の教えがあると言われています。
代表作など
1901年発表の『廿世紀之怪物帝国主義』(東京大学が明治新聞雑誌文庫として所蔵)は、他の国を考慮せずに自国の発展を行う思想の帝国主義に強い反対を示した内容で、そう言ったものとしては先駆けと言われています。当時は帝国主義を唱えるのが政治としての常識だとされており、海外や日本の実情を交えて紹介した幸徳秋水の最初の出版本です。
他には1903年に発表された『社会主義神髄』。現代の価値観で見ると、洗練されていない考えといった指摘がありますが、日露戦争が起きる直前の躍起となった日本において出された事に価値があると言われています。文中の「社会主義は一面において民主主義たると同時に他面において偉大なる世界平和の主義を意味す」の文言は有名です。
また中江兆民について記した『兆民先生』(高知市民図書館が近森文庫として所蔵)などもあります。
■中江兆民
同じ高知出身で、自由民権思想家として知られています、
長崎と江戸やフランスにて、フランス語を教わった経験を活かし1874年に仏学塾を設立。元老院権少書記官ともなりますが辞めて、1881年に東洋自由新聞を出しました。
また政府に反対の立場を示しながらも、かなり短期ではありますが政治家として衆議院議員しても務めています。
■社会民主党
日本で初めての社会主義政党です。1901年に他に片山潜や木下尚江、安部磯雄などと共に結成しました。
ちなみに社会民主党の解散を発表した他の新聞も、配布を禁止されています。
■大逆事件
社会主義・無政府主義者に対して、明治政府が彼らは明治天皇を、暗殺しようとしたと言う口実を作ったことが大きく影響し、24人が死刑となった事件です。
自由平等思想に警戒を示したのが背景とされており、特に幸徳秋水は主犯とされ幸徳事件と言う別名もあります。