川村清雄(かわむらきよお)
川村清雄は1852年4月に江戸で生まれました。
徳川幕府と繋がりを持つ旗本の子供として育ち
生家も芸術に対して寛容であったため、
幼い頃から、京都出身で日本画家として名高い
田能村直人や山水・花鳥の作品がよく知られている
南画家の春木南溟。
また開成所を通すなどして
絵画について学んでいます。
その後19歳の時には明治維新の気運もあって
派遣留学生としてアメリカに渡りました。
当初この留学は
政治や法律について学ぶためのものでしたが
絵を好んでいたこと、そして
周囲に後押しされたこともあり、
この渡米を機に画家になる事を決め、
パリやヴェネチアにも渡り
ヴェネツィア美術学校にて
油彩画の技術を取得します。
やがて1881年に
日本政府からの指示により帰国。
その数年後には画塾も開設しました。
30代の頃には明治美術会の立ち上げに加わり
その二年後には巴会を設立。
晩年まで制作活動を活発に行い
1934年5月、81歳で息を引き取っています。
作風
川村清雄は第十三代将軍徳川家定の正室とな
る篤姫を描いた『天璋院像』や、
自身が深い交流のあった
無血開城の立役者の一人である勝海舟を描いた
『江戸城明渡の帰途』など、
日本に強く結びつきのあるテーマを
西洋画の学術的な作風で描いています。
しかしその作風は日本においては
フランスで学んだ黒田清輝や藤島武二などによる
西洋絵画を取り入れた新しい気風とは合わず
あまり注目はされてきませんでした。
とは言え明治神宮絵画館へ
『振天府』を収めたことや
勝海舟の伝手で海軍将校の肖像画や海戦図を描いたり
油絵による将軍の肖像図制作など、
一定の注目が集まっていたのも事実と考えられます。
また近代日本洋画の礎を築いたのみならず
金箔や箔地、漆板の上に描いたりした
作品も残しているなど、
器用な一面も表現して見せています。
・作風の根底
川村清雄が渡ったフランスでは
日本の趣のあるものが好まれており、
帰国する際には画家の友達に
「日本のものを忘れないで欲しい」と
手紙を渡されたエピソードがあります。
川村清雄はフランスでの修行中
“日本人にとっての油絵”
と言うものに対して考えており、
これは川村清雄の作風の根底を
形作っていると言えます。
様々な人物に愛された川村清雄
川村清雄は画壇に注目されていなくても
様々な人物が川村清雄自身の技術と
人柄を好んでいたため
独自の作風を貫けたと言われています。
勝海舟は川村清雄よりも先に倒れるのですが
「自分の隠し子だ」と茶目っ気のある表現で
川村清雄の事を語っていたようです。
川村清雄には多くの資料が残されており
そこからも如何に川村清雄自身が
愛されてきたかが伝わってきます。