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2020.04.17
ブランド品

川口軌外【洋画家】

川口軌外(かわぐちきがい)

 

川口軌外(本名:孫太郎)は、189211月に

 

和歌山県有田郡で生まれました。

 

やがて14歳の頃に和歌山県師範学校を卒業し

 

まもなく洋画グループに加わります。

 

そして1911年に開催された水彩画講習会にて

 

日本近代美術史を代表する画家となる

 

斎藤与里の後期印象派についての

 

美術論に触れたことがきっかけとなり

 

画家になる事を決意し、次の年に上京しました。

 

上京先では太平洋画会研究所に入り

 

アカデミックで力強いタッチの

 

歴史画が知られている中村不折から学びます。

 

また日本美術院洋画部で学び、

 

そこでは春陽会を設立した事で知られている

 

小杉未醒を師に持ちました。

 

その後1919年からフランスへ渡欧。

 

以降再渡仏するなどして

 

生活及び作品制作の拠点の一つとなっていきます。

 

なおその間、1926年には

 

アカデミー・ロートで学びました。

 

そして1937年にはキュビズムを代表する

 

画家の一人として数えられ

 

るフェルナン・レジェでも指導を受け

 

作風に変化が現れます。

 

それから約2年後に帰国すると『車のある風景』や

 

『寺院』を出展するなど二科展での活躍が目立ち

 

翌年には二科会々友に。

 

しかし同年に離脱し、独立美術協会に参加しました。

 

第二次世界大戦以降は国画会会員となり

 

1952年に『鳥の情態』や

 

『花と裸婦』、『静物』を出品。

 

そして19666月、73歳で息を引き取っています。

 

 

作風

 

川口軌外は鳥や貝、少女を題材にした

 

ファンタジー的な雰囲気があふれる表現ながらも

 

画法としてはキュビズムと合わさった

 

独創的な作品を展開していることで知られています。

 

またヨーロッパ地方で生まれた形式が

 

作風に影響を与えている事も指摘されており

 

特にフェルナン・レジェに学んだ影響か

 

画面が構成的になっていると言われています。

 

 

関連用語の細かい解説

 

・後期印象派

 

1910年に評論家のロジャー・フライが

 

マネやセザンヌ、ゴッホと言った

 

日本でもよく知られている画家の

 

作品を展示する事で紹介。

 

外の景色を忠実に再現する印象主義から

 

構築性のあるものへと変わる時期の作品を

 

イギリスに向けてアピールする目的で展示されました。

 

なおパリに渡った斎藤与里は、雑誌『白樺』などで

 

後期印象派について語っています。

 

・キュビズムについて

 

1907年からパブロ・ピカソと

 

ジョルジュ・ブラックによって

 

パリで誕生した絵画の主流です。

 

複数の視点を一つのキャンバス上に表現するもので

 

立体派とも呼ばれています。

 

 

様々な手法を取り入れた川口軌外

 

川口軌外は戦争で作品製作が難航となった時期を挟み

 

様々な手法を取り入れようとしていました。

 

作品の数々を見ると否応なしにそれが伝わります。   

       

一連の作品を通して、一人の画家の努力が

 

伺えるのではないかと思います。