山田敬中(やまだけいちゅう)は、1868年に東京で生まれました。“敬中”は号ですが、このほか山田年忠(やまだとしただ)、南窓、可得などの号も称しています。小学校を卒業してからは俳句や漢詩、絵を好み、18歳頃より浮世絵師の月岡芳年から学ぶようになりました。ここでは人物画について教えを受けましたが、翌年からすでにいくつかの作品を制作。師事し始めて3年後には青年絵画共進会にて四等を獲得し、少しずつ名を広めていきます。
また師が他派の画風を学ぶことを提案したため、山田敬中は20代前半のとき日本画家の玉端玉章から円山派の技法について教わり、新たに写実的な画風を吸収しました。同年、1891年には東京美術学校の設立に携わっていた岡倉天心が中心となっている日本青年絵画協会に参加。並行して作品制作を続けながら、27歳の頃には東京美術学校の教壇に立っています。
しかし1898年、東京美術学校内での騒動をきっかけに辞任し、まもなく岡倉天心の立ち上げた日本美術院の設立にも参加。出版社で口絵書きの仕事なども受けますが、金沢に移り住むと、以降10年ほどは現地で教諭職に就くなどして腰を据え、画壇の中心からは離れていきました。
やがて、40代の頃になると上京し、第一回文部省美術展覧会において出品作が入賞となります。以降は文展を中心に作品を発表し、1917年には連作『山路六題』を発表。また第二回帝国美術院展覧会で推選となると言ったように、政府主催の展示会が活動の場となりました。
晩年は師である川端玉章が設立した川端画学校で後進の指導に務め、1934年、息を引き取っています。
官展の場で幅広く活躍した山田敬中は、その作品の幅も広くあります。
風景画が目立ちますが、人物画や歴史画、仏画なども発表しています。
日本美術の革新を願う岡倉天心に沿うように日本青年絵画協会や東京美術学校。それに日本美術院にも携わっている事。
他にも巽画会への参加や石川県立工業学校で教頭として務めると言ったように、日本美術や後進育成に大いに貢献してきた点が評価できます。
それに1909年に川端玉章が開いた私立美術学校でも指導していると言ったように、恩人への感謝も行動で示した人とも言えます。
代表作
1907年第1回文部省美術展覧会で入選となった『華の蜜』。
1912年第6回帝国美術院展覧会で出した『中原の鹿誰が手に帰す』などがあります。
■月岡芳年(つきおかよしとし)
幕末から明治序盤まで浮世絵師で、美人画も描いていますが現在では鮮烈な印象を残す日本画家としてもよく知られています。
戦争を描き、また歌舞伎におけるショッキングな場面を題材にした作品を発表し「血まみれ芳年」と呼ばれています。
しかしそれによって当時の浮世絵の代表的人物となり、新聞挿絵なども手掛けました。
■東京美術学校騒動
西洋の文化を大幅に取り入れた明治維新の時代、絵画においても西洋絵画の技法を駆使した近代化が求められていました。
岡倉天心はそれを推し進める側の人物でしたが、古くからある日本絵画を大切にしたい側からしたら、敵対対象と見なされてもいます。
よってその思想の違いから騒動が起き、岡倉天心は校長の座に付いていたのですが辞める事となりました。