山本五十六は1884年に新潟県長岡市で生まれました。なお父は長岡藩士の高野貞吉と言う人物で、56歳の時に五十六が生まれた為、その名が付けられています。
中学在学中から軍人となることを志していた山本五十六は、1901年に長岡中学を卒業すると海軍兵学校へ進学。なお同期にはのちに海軍中将となった堀悌吉がおり、親交を深めていきました。在学中は優秀な成績を残し、1904年に同校を卒業すると同時に軍務に就きますが、まもなく参戦した1905年の日露戦争時に左手の指に大きな怪我を負っています。約3ヶ月にも及ぶ入院をしたといわれており、この怪我がきっかけとなり、山本五十六は軍人として励む決心を、改めて固めました。
その後20代後半の頃から海軍大学校にて学び、1916年に同校を出ると、3年後にはアメリカへ留学しています。現地ではハーバード大学にて米国駐在武官として2年ほど学び、そのほかアメリカ国内の各所を視察し帰国。海軍大学校で教壇に立ったのちは、アメリカで目にした航空機に着目し、航空隊の指導などにも携わりました。
また1925年から在米日本大使館付武官として2年間ほど勤めることとなった際には、留学時から続いて再びアメリカの燃料や軍備、各種の流通などについて視察を行い、のちの対米戦にその経験を活かしています。
やがて山本五十六は45歳で海軍少将に。また50歳の頃には海軍中将となり、1934年に行われた第2次ロンドン軍縮会議では、海軍の代表として出席。艦保有比率が日本が不利となっている決まりに対して進言するなど、対諸外国を強く意識した考えを表しました。日米の戦争には反対の考えを持っていましたが、以降も軍人として務める中で連合艦隊兼第一艦隊司令長官、また第二次世界大戦下でもあった1940年には海軍大将に任命されるなど、対戦に向けて軍を指導する立場となっています。翌年に勃発した太平洋戦争中のハワイ・真珠湾攻撃の作戦では指揮を執りますが、その後も最前線に立ち続けました。
そして1943年、戦地の視察中に撃たれ、息を引き取っています。
山本五十六はアメリカ訪問中に着目した航空機で、ハワイ真珠湾攻撃を提案した点が特に有名であり、また特徴ともいえるでしょう。
航空艦隊の発展に務め、第2次ロンドン海軍軍縮会議においては航空機の製造も進言しました。
ハワイ真珠湾攻撃では徹底的な研究の下、具体的に考え、大国に慎重な姿勢を見せていました。
山本五十六は、このようなハワイ真珠湾攻撃における役割によって好戦的とも評価されています。
しかし実際は米国駐在武官時代にアメリカとの差を実感し、何度も交戦する事に反対の立場を取っていた事。
ハワイ真珠湾攻撃の決行開始直前となっても、中止の姿勢を極限の所まで見せていました。
これらの事で山本五十六は軍人でありながら、和平路線を最後まで望む葛藤の人と言った評価がなされています。
代表作
1942年に自身の思いをしたためた書を海上自衛隊幹部学校が所蔵。
広瀬彦太との共同著作と言う形で発表した『兵を空拳に泣かすな : 山本元帥・増産遺言集』を公共図書館が所蔵しています。
■堀悌吉(ほりていきち)
1883年、大分県出身で、海軍で活躍した人物です。1904年に海軍兵学校を首位の成績で出て。1921年にワシントン会議随員となり、またアメリカとの戦争回避に奔走しました。
山本五十六からの28通の手紙を保管し、それに遺髪も持っていた事も判明しています。