小野鵞堂は1862年、静岡県で生まれました。なお本名は小野鐗之助(かんのすけ)で、父の小野清右衛門は田中藩で武道師範を勤めていたと言われています。しかしながら10代前半の頃に父が亡くなり、その後小野鵞堂は一人で上京。書家の成瀬大域から漢学と書について教わり、国学者の小中村清矩からは国学を学んでいきました。
また明治維新以降は日本新聞社の社員や大蔵省にて書記を務め、20代後半の頃には百人一首を記し昭憲皇太后に授けたと共に、『古今集序』も発表するほどの才能を発揮しました。
以降も、日本独自の古筆や評価の高い資料・古跡の研究を独学で行っていき、1891年には華族女学校にて書道について教鞭を執ることとなり、それから30年以上の間、後進への指導を続けています。
晩年は書道研究団体の斯華会を結成し、同年、雑誌『斯華の友』を出版するなど書道の興隆に尽力しました。
そして1922年、60歳で息を引き取っています。
小野鵞堂の書は芸術性が高いと同時に、実用的である所に特徴があります。
分かりやすさもあれば品の良さも感じられ、その為に小学校や中学校の授業などではお手本として使われました。
・現在まで通用する考え
書に対して小野鵞堂自身が「日常的に使えると同時に芸術性も高いものであるべきだ」と言った考えを持っており、それが鵞堂流と呼ばれる書体の背景になっています。
自身の熱心な研究によって編み出したものでもあり、現在でも多くの人がその線の美しさに魅了されています。
・後進の指導にも熱心で、女子教育にも尽力
小野鵞堂は特に女子教育に力を入れていると言われています。前述の、30年間務めた女子学習院(前・華族女学校)の教授として上流社会へ貢献し、1903年設立の斯華会によって、多くの女性が鵞堂流の指導を受けました。
なお斯華会はその後、機関誌『なにはづ』や温知会で知られている神郡晩秋。寒香書道院や日展審査員も務めた中村春堂などと言った人物を輩出しました。
・その他
このように大成したのは、早くで父を亡くしそれでも家庭を助けると同時に勉学に励んだ所もあると言われています。
また斯華会は通信教育の形を取っており、現在に通用するスタイルの先駆けだったともいえるでしょう。
実際は徳川光圀の遺訓だとされる『家康公遺訓』や『女大学一節』(東京国立博物館が所蔵)
1926年発表の『小倉百人一首』(跡見学園女子大学図書館が所蔵)などがあります。
■神郡晩秋(かみごおりばんしゅう)
1888年に生まれ、斯華会には1905年に入りました。
1924年に温知会を設立し、中国や日本の伝統書を後世に伝えるため活躍しています。
そのほか泰東書道院理事も務めました。また神郡晩秋の孫として、神郡宇敬と言う書家がおり現在も活動しています。
■中村春堂(なかむらしゅんどう)
1868年に生まれた能書家です。最初は父親から習っていたものの、宮中顧問官三浦安が高く評価した事がきっかけで小野鵞堂から学びました。
寒香書道院の他には1916年に雑誌『習字之友』を発表し、1933年『日本書道』を世に送り出しました。