寺田政明(てらだまさあき)
寺田政明は1912年1月に
福岡県八幡市で生まれました。
その後1919年、少年時代に足に大怪我を負い
入院中に絵を描く医者と出会った事が影響し
画家になる事を決意します。
その為同舟舎絵画研究所や太平洋美術学校に入り
ここでは暗い色彩感覚が特長の麻生三郎や
『青いカーテン』や『重い手』が知られている
鶴岡政男。
寺田政明と同じく、身体に障害を抱えながらも
活躍した松本竣介などと知り合いました。
1932年に第2回独立展にて初入選となると
以降も出品を重ね続け、1934年には
鶴岡政男が開いたNOVA展にも出展。
また2年後には麻生三郎と共に
エコル・ド・東京を立ち上げると
同舟舎絵画研究所や太平洋美術学校で知り合った
画家仲間と共に作品展開を行います。
その後もグループの結成や
脱退を繰り返しながら作品を発表。
やがて1989年7月、77歳の時に息を引き取りました。
代表作としては『親不知海岸』や『魔術の創造』、
『黙思独歩』などがあります。
作風
寺田政明は超現実主義的(シュルレアリスム)の作風を
早い段階で取り入れた作家として知られています。
超現実主義的とは夢や夢想と言った論理や理性のない
無意識的なものに目を向けた表現です。
なおその頃は東京の豊島区に移り住み
他の画家達と共に池袋モンパルナスと言う村を創り
主要人物の一人となりました。
また戦後以降になると抽象的なタッチから
骨太な具象絵画に変化し、活動終盤時には
樹木や小樽運河を描いたシリーズ及び連作を発表。
自身の近くにあるものを多く手掛けるようになり
それらはシュルレアリスムを
全面に出した時代とは違って、自然体で見る事が出来る
と指摘されています。
関連用語の細かい解説
■太平洋美術学校
1945年に戦争により建物自体が焼失。
その後、太平洋美術会として復活します。
■同舟舎絵画研究所
東京美術学校で教鞭を執っていた人達が同じ様に指導。
当時は美術を教える場所が
続けざまに創られていました。
息子により寺田政明の事が語られています
寺田政明の作品は息子であり、
俳優の寺田農により作品が公開された事があります。
ちなみに寺田農は
豊島区の池袋モンパルナスで生まれました。
寺田農はインタビューで父の寺田政明について
積極的について答えています。
楽しかった思い出として記憶にあるようで
寺田政明の作風が後半自然体になったのは、
家族と共に過ごしてきたからかもしれません。