奥田元宋は1912年6月に広島県吉舎村で生まれます。
やがて19歳で日影館中学校を卒業すると、
同じ広島県出身で遠い親戚になる、日本画家の
児玉希望に住み込みで弟子入りをしました。
一時、自身の才能に自身が無くなっていた時期には
児玉希望の下を離れましたが、
1935年に再度弟子入りを果たしています。
その翌年の1936年には、出品した『三人の女性』が
文部省美術展覧会を入選。
38歳の頃には児玉希望の一派と
伊東深水の一派によって作られた研究会である
「日月社」に加わり、
1956年には日展会員になります。
そして1984年、72歳の時には
文化勲章を受賞しました。
その後も作品の情熱は絶やす事なく、
1996年には銀閣寺の障壁画の四部作となる
山霊重畳を描き上げています。
そのほか代表作には『天霧山湖』や『待月』
『盲女と花』などがあります。
奥田元宋は活動当初は人物画や花鳥画などの作品を
発表してきましたが、1944年に広島に疎開したのを
きっかけに、風景画を描くようになりました。
戦時中と言う大変な最中もあって、
自然の風景が愛おしく思えたと考えられます。
風景画においては当時の近代ヨーロッパの色彩感覚と
水墨画が合わさり、新朦朧体の表現と呼ばれ、
温かさに包まれてます。
また紅葉のある風景をモチーフに、
内面的表現を重厚感のある赤色を使って現した
「元宋の赤」と呼ばれる作品群も有名です。
■新朦朧体
空気感を重視するために
輪郭をぼんやりとさせて描く手法を朦朧体と言いますが
横山大観らが確立させたその技法は
非難の意味合いでも使われていました。
しかし表現手段して認知され、非難の意味合いが
少なからず薄まってきた事。
また奥田元宋の場合は空気感を幻想的に描写する事から
新朦朧体と言われていると考えられます。
■伊東深水について
浮世絵と現代風俗を合わさった美人画。
また新版画運動を代表する日本画家しても
知られています。
ちなみに子は女優の朝丘雪路がいます。
奥田元宋が「元宋の赤」と呼ばれる作品を作ったのは
1974年の改組第6回日本美術展覧会に出した
『玄溟』からと言われています。
そしてそれから数カ月後に、妻を亡くしています。
その事がきっかけで一時期は筆を休んでいたものの
全国への写生旅を行い、
作品作りへの情熱が再び湧き上がりました。
恐らくそう言った経緯も、元宋の赤の作品群が
情熱や穏やかさも内包していると言われる
素因となっていると考えられます。