奥原晴湖(本名は節)は、1837年8月に下総古河藩(現在で言う茨城県)の家老池田政明の四女として生まれました。
その後漢学については芽根一鴎から、画については谷文晁の弟子である牧田水石から17歳の時に教わります。さらに明清の諸家について自主的に学んだのち、直接的な師弟関係はないものの、清人の鄭板橋からも個人的に学び、南画についての見識と技法を深めていきました。
やがて29歳の時に奥原家の養女となった事は、詩文や書画に慣れ親しんでいる人達との繋がりを持つきっかけとなり、桂小五郎の名がよく知られている明治・幕末時代を代表する政治家の木戸孝允は奥原晴湖を気に入り、彼女が脚光を浴びる要因になったと言われています。奥原晴湖自身としても書画会に積極的に参加する事で、豪快な容姿と後述する作風にてその名を広めていき、明治序盤を象徴する文人画家として活躍していきました。
そして1913年、77歳で息を引き取っています。
代表作としては『月ケ瀬梅渓図』などがあります。
■複数のアトリエで作品を展開
奥原家の養女となった頃、奥原晴湖は摩利支天横丁にて「墨吐烟雲楼」と称したアトリエを構えるようになりました。なお晴湖の作家名を使うのもその時からのことであり、江戸を代表する南画の画家となっていきます。
また墨吐烟雲楼は書画や漢学を教える場としても機能していましたが、後に鉄道用地として買われてしまいます。
そこで上川上村を新しい活動拠点とし「繍佛草堂」や「繍水草堂」、「寸馬豆人楼」などのアトリエ名を複数回変えて作品を作っていきました。
奥原晴湖は勢いのあるタッチが持ち味として支持されていると同時に、密画と言って細かに描いていたりカラフルで色彩豊かな作品も多くあります。
また勢いのあるタッチであっても奇をてらっているわけではなく、合理的で巧みな画面構成は「東海書き」と言う呼ばれがあるのです。
■作品に詩や詩句を載せた新境地も見せます
「墨吐烟雲楼」時代には漢詩について、詩塾の「下谷吟社」を開いた大沼枕山や、1983年8月刊行の「明治文學全集 62 明治漢詩文集」にも作品が収録されている薄井小蓮からアドバイスを受けています。
またその時奥原晴湖は作品内に自身の作った詩や詩句を載せ、ある種の新境地を展開しました。
奥原晴湖は30代の頃に儒者の鷲津毅堂や画家の川上冬崖達と共に、下谷文人グループの半閑社を立ち上げ、そこには東京美術学校の校長となった岡倉天心を含む、300人以上の画塾生がいた時期がありました。
また明治序盤において文人画では安田老山と並ぶ存在にもなっています。しかしその人気は南画及び文人画の世間の人気に左右されていた部分があり、世間でそれらの人気に陰りが出ると、奥原晴湖は1891年に熊谷に活動拠点を移しました。
とは言え奥原晴湖は尊重されており、1961年には奥原晴湖墓が埼玉県指定記念物の旧跡として認定。2006年には奥原晴湖のアトリエまでの玉石の道が発見され「晴湖の道」と名付けられています。
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