吉向蕃斉(七代松月)は、大阪で制作される吉向焼の7代目として活躍した作家です。
1924年に大阪府の枚方にて生まれ、20代前半の頃に6代目・吉向松月に弟子入りしました。弟子入りから3年後となる1950年に7代目松月として襲名し、同時に個展なども開催。作家としてその名を広く知られていくこととなります。
その後、1975年には関西女子学園美術短期大学の講師となり、並行して制作活動も行う中で、1984年には和宗の本山・四天王寺の管長・出口常順から“蕃斎”の号を授かりました。のちの平成元年には、大阪府から産業文化の功労者として知事表彰され、そのほか大阪工芸協会参与や枚方工芸会顧問なども務めています。
2018年に吉向蕃斎は93歳で息を引き取りましたが、吉向松月窯は8代松月が跡を継いでおり、また2007年には、9代松月が襲名しました。
吉向焼は江戸時代に、戸田治兵衛(吉向治兵衛)が始めた陶器の名称です。
京都の楽家発祥である、ろくろを使わず、低温度で焼いた楽焼などに学び、褐色や黄色、緑からなる三彩釉の交趾焼の手法を取り入れている事が多いのが特徴です。
吉向焼の初代は戸田治兵衛という職人でした。
戸田治兵衛は父の親類に砥部焼の陶工がいたことに影響され、砥部焼を学んだ後に京都でより一層修行に励み、現地では楽焼の教えを受けたのち、京焼の初代清水六兵衛や浅井周斎、初代・高橋道八などからも学んでいます。
その後、1804年に大阪にて、土産ものから茶碗、置物…と自身の作品を売るようになり、当初それらの焼き物は自分の通り名である亀次の名を使って、亀甲焼と呼んでいました。その後、大坂寺社奉行の水野忠邦に上納品を納めたことがきっかけとなり、「吉向」の号を授かりそこから吉向焼と呼ぶようになります。
以降は各地の藩に招かれ名を広めていき、藩主などが使う御庭焼を大洲藩(現在の愛媛県)や須坂藩(現在の長野県)など、全国6藩にて教えるようにまで至りました。
吉向焼は、初代の戸田治兵衛からは細かく代が分かれる事になります。
養子として迎えていた親戚の亀治が2代目として窯を継ぎ、大坂吉向として名が広まります。一方で別の養子である一朗が江戸吉向として継ぎましたが、残念ながら江戸吉向は明治中盤に廃業になりました。
ちなみに大坂吉向は、のちに吉向十三軒と吉向松月に分かれるようになります。
さらに前述の通り、7代吉向蕃斎の長男が8代目吉向松月として活動。次男の吉向孝造が9代目松月となっています。
初代から脈々と生み出されている作品は各地で愛されています。特に、初代の戸田(吉向)治兵衛の作品は大阪市立美術館や東京国立博物館。モントリオール美術館内のクレマンソーコレクションやボストン美術館などで収蔵されています。