吉井勇は1886年に東京都港区で生まれました。なお父は軍人で海軍の近代的発展に貢献したと言われる吉井幸蔵。祖父は島津忠義から信頼を置かれ尊皇討幕運動に助力した吉井友実、という名家の華族の子として育っています。
吉井勇は中学生の頃から自作の短歌を雑誌に投稿し1位となるなど短歌の才能を現しており、一時体調を崩した際には、療養中に文芸誌『明星』に多くの作品を発表していました。この間、19歳で早稲田大学文学部高等科予科へ進学すると、翌年には与謝野鉄幹が開く東京新詩社の歌会に参加しています。1907年には、学部を専門部政治経済科に変更。吉井勇は『明星』で北原白秋と共に注目されている最中でしたが、同年に二人そろって東京新詩社の活動から脱退しました。次の年には早稲田大学も中退していますが、一方で北原白秋や木下杢太郎とでパンの会を立ち上げ、耽美派の活動の基盤としました。
本格的に文壇で活躍するようになった吉井勇は、文芸雑誌『スバル』の編集に携わりながら同誌で戯曲を発表。また1910年に初めての歌集である『酒ほがひ』、1911年に戯曲『午後三時』を出し劇作家としても名を広めていきます。それから1915年に歌曲『ゴンドラの唄』の作詞を担当し、劇『その前夜』の中でカチューシャ役が有名な松井須磨子が歌い大ヒットとなりました。
以降も制作活動を続け、30代の頃には作家仲間たちと文芸雑誌『人間』を出版。1934年からは、前年にあった妻との離婚のこともあって高知で隠遁生活を送りますが、1938年には京都へ移住。晩年、第二次世界大戦後には谷崎潤一郎や新村出らと親交を深めながら、宮中新年の歌会始の選者や日本芸術院会員を務めています。
そして1960年、74歳で息を引き取りました。
吉井勇は初期は耽美派として活躍した所に特徴があります。
『酒ほがひ』は青春のだらしなさや人生の悲しみを表現し、若者に至るまで多くの支持を獲得しました。退廃的な雰囲気を持つ歌人の代表的存在ともなっています。
また旅や海、祇園について歌った内容もあり、二万首ほどが確認されています。
ちなみに戦争には強い衝撃を受けた事を日記で語っており、戦争歌について自ら語っている作品も、それほど確認出来ていません。
高知での生活期間を吉井勇自身が「人間修業であった」と語り、その後作風が大きく変わっていったと言われています。
また吉井勇は明治から昭和に渡って作品を手掛け、戯曲や作詞の他に小説やエッセイなども発表しました。
代表作
1916年発表の『東京紅灯集』(立命館大学図書館白楊荘文庫が所蔵)
1918年発表の『鸚鵡石』(高知市民図書館近森文庫が所蔵)
などがあります。
■北原白秋(きたはらはくしゅう)
『待ちぼうけ』や『雨ふり』など現在でもよく歌われている童謡の歌詞を手掛けた詩人、また作家です。作曲家・山田耕筰と共に雑誌『詩と音楽』を出しています。