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佐藤忠良は1912年7月に宮城県黒川郡で生まれました。
幼少期に父が亡くなった関係で、母とゆかりの深い北海道夕張町に移り住みます。その後20歳の頃になると、東京で絵画について学ぶために日本画家の川端玉章が立ち上げた私立美術学校である川端画学校に所属。2年後には、彫刻家として道を歩むことにしたことが理由で、東京美術学校彫刻科塑像部で学ぶようになりました。
その後1937年には国画会にて奨励賞を受賞。1939年に同校を卒業すると『原の城』や『長崎二十六殉教者記念像』などが有名な舟越保武。『風雪の群像』や『嵐の中の母子像』などが知られている本郷新などと共に新制作派協会の設立に加わり、翌年には結婚し子供も授かっています。
やがて1944年に軍務に就くこととなり、その間作品制作は一時期に停止しますが、帰還後は本郷新のアトリエを借りて再び制作を開始しました。
40代後半に第3回高村光太郎賞の受章や、1974年には『帽子・あぐら』によって、芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど、出した作品は連続して受賞を認められていきます。また70代になる頃にはフランス国立ロダン美術館において、日本人初となる個展を開催。フランスアカデミー・デ・ボザールの客員会員に薦められると国際的な地位も獲得しました。
以降も数々の受賞歴を残しながら東京造形大学名誉教授として後進の指導を行い、1990年には宮城県美術館にて佐藤忠良記念館が開館。
そして2011年3月、98歳で息を引き取っています。
佐藤忠良は秀でた表現能力と高い感受性が特色と呼ばれ、そういった点も含め、国際的に認められていったと言われています。
1989年には日本人的な体質を具象彫刻として表現したと言うことで、朝日賞を受賞しています。また活動初期には『母の顔』や『魚商の女』、『建築家』と言った“きたな作り”と評されている美しい容姿の男女ではない姿の作品群。
自身の子供が誕生したときの感動が表現されたと言う『オリエ』や『たつろう』。
他にも裸婦像や記念像も多数手がけているなど、テーマ等が多種多様に分かれているのが特徴です。
このようにして数多く手掛けている点からも高い感受性があることが見受けられると思いますが、戦争を体験したことで真の人間の関係性が現れると知り、そこにある醜さや美しさも作品作りの根底となっているようです。
■具象彫刻とは
具象と言う言葉自体は具体的な形をしていると言う意味がありますが、芸術での具象は人や動物と言った具体的な形をしたものを扱ったものとなります。
具象彫刻は自分でしっかりと確認したものでもあると同時に、生命感など、対象物を何気なく見ただけでは分からないようなものを表現することを現しています。
佐藤忠良の『やせた女』や『はだか』、『娘の像』と言った裸婦像は生涯を通して手掛けていきましたが、日本人が日本人を同じ国の人として見つめた目線ならではの作品であり、長所や短所さえも含まれている事が評価されています。
佐藤忠良は彫刻は時間を盗られたもので、象徴性もあると評しています。確かに佐藤忠良の作品に限らず彫刻には、そのような一面があると思います。
自分の人生の中で見つめてきた事と真摯に向き合って造られた作品群を見つめると、何かしら感じられるものがあるはずです。
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