井波唯志(本名:忠)は1923年3月に石川県金沢市で生まれした。なおこの家は代々、漆芸家・喜六斎として名前を受け継いでいる家系であり、初代は輪島の蒔絵職人の発展に大きく貢献した事で知られています。
井波唯志は19歳の頃に東京美術学校付属文部省工芸技術講習所へ入学し、そこでは中国や朝鮮の古陶磁器について深く学んでいきます。色絵磁器や金襴手などで独自の作風を展開した加藤土師萌からは陶芸について。蒔絵の範囲を超えてカラフルな色漆と真新しいデザインが有名な山崎覚太郎からは漆芸について。オリジナリティのある模様は芸術性のみならず、量産にも挑戦した富本憲吉から加藤土師萌同様陶芸について学び、その経験からは工芸家としての方向性や作品について深く探求していったと言われています。
その後1944年に同校を卒業し、そこからは父から加賀蒔絵について学ぶようになりました。1946年には第2回日本美術展覧会において出品した『夏の蔓草手筥』によって初入選を獲得し、以降も様々な受賞を重ね、1953年には輪島市立輪島漆器研究所の所長となっています。1975年には石川美術文化使節副団長として欧州地方に渡り、1995年には日本美術展覧会の理事に就任。また80代半ばの頃にはローマ賞典祭の北陸の工芸・現代ガラス工芸展の場に、花器の『洋々』を発表しました。
そしてまもなく、2011年、87歳で息を引き取っています。
井波唯志は金銀粉に卵殻、螺鈿などを用いた加賀蒔絵と、彫った場所に金・銀粉などを貼り付ける沈金。それらに昔から培われてきた技術を駆使するだけでなく、現代的センスを持ち込んだ新鮮な内容の作品を多く発表してきました。また日本美術展覧会や日本現代工芸美術展が主だった活躍の場として知られていますが、上記の作風で抽象的でもあるテイストは評判も高く、個展を幾度も開催しています。
なお朱漆が強く頭に残る作品も多いと言う指摘もあります。それに1953年に輪島市立輪島漆器研究所所長として務め、漆芸パネルや大型家具も作ると言ったように、時代が求めているものにも応えていきました。
漆芸家の家に生まれた井波唯志は生まれたばかりの時、使われたタライは漆塗りの蒔絵があったといいます。そのような背景もあり、伝統工芸品に対する固い先入観が無く、自然で柔軟な発想が出来たのかもしれません。なお詩的な情景や叙情詩的な感性を根底にすることが、井波唯志の信念でもあるようです。
■加賀蒔絵について
石川県となる加賀藩で広まった蒔絵のことで、蒔絵は粉末を蒔くような動作をします。
前田利家が「文による武」と言う計画で江戸の清水九兵衛を招待し、印籠蒔絵なども作られてました。
現在は蒔絵を使った作品として、ボールペンや御位牌も売られています。これらは井波唯志が現代の需要に応えて作品を発表したことから、受け継がれている部分もあると思います。
井波唯志を通して、その時代に通じる製作の覚悟が感じられるかもしれません。