井上馨は1836年に山口県で、藩士の子供として生まれました。15歳の頃に日本三大学府の一つといわれる萩藩校・明倫館に進学。1855年には中級藩士の志道の娘と結婚し、養子となります。また結婚と同じ年に参勤交代によって江戸へと渡ると、蘭学や、江川太郎左衛門塾にて砲術について教わりました。
その後、藩主の世話係を務めるようになると聞多の名を与えられ、1862年には伊藤博文や高杉晋作などと共に尊王攘夷運動に参加。尊王攘夷運動参加時からは血気盛んに行動する時期が続き、藩からの指示で西洋船を買い、また尊王攘夷結社である御楯組の1人として英国公使館焼き討ちの計画も実施しています。なお海外からの訪問者を殺害しようとした責任を問われ、一時は謹慎となりました。
しかし、1863年には藩の許可の上、密航と言う形でイギリスに留学。なお井上馨含むその時のメンバーは長州ファイブと呼ばれています。井上馨は出国時、天皇を敬い開国に反対を示す尊王攘夷派だったにも関わらず、一転して開国派となりました。国内ではまだ開国に反対する考えも多くありましたが、一方で、翌年には四国連合艦隊が下関を襲撃。諸外国との差を見せつけられる結果となり、井上馨たちは帰国すると四国艦隊下関砲撃の講和交渉に参加しています。また薩長連合にも関わり、現政府の一新を図りました。
やがて政府が一変した明治維新以降の1869年には、造幣頭に。1871年には民部少輔となり、以降も外務卿及び第1次伊藤内閣の外務大臣となるなど、明治政府の重要職に就き外交や財政に尽力していきます。
晩年も元老会議に出席し大隈内閣の後押しをするなど活躍しますが、1915年、79歳で息を引き取りました。
井上馨はこのように尊王攘夷派から開国派に一転しましたが、藩や明治政府に従い日本を守った所に特徴があるといえます。
1853年にアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が来航した際には、対応に追われる日本を見て敵国の驚異を退ける事を決意。また政治家として外交に尽くし、1875年には特命副全権弁理大使の立場で、日本が朝鮮に対する開国と同時に有利となる、領事裁判権を持たせた日朝修好条規を成功させました。
他にも1869年に貿易の先収会社を立ち上げています。
また、井上馨の大きな功績として、第一次伊藤内閣の外務大臣時に、条約改正の実現が叶わなかったとは言え、近代的な日本の礎を築いた点が挙げられます。前述の貿易の先収会社は三井物産の前進であり、生活文化を取り入れる欧化政策を推進。また銀行制度も改めたりしました。
1898年の第三次伊藤博文内閣における大蔵大臣を辞めてからも、政治の世界とは一定の距離を置きながら、その存在感は維持し続けていたようです。
関連書
『井上侯爵家ヨリ交附書類』を三井文庫が所蔵。
北海道庁長官からの書簡など北海道関連のやり取りを、国立国会図書館憲政資料室が所蔵などしています。
■日本三大学府
井上馨の通った長州藩の明倫館のほか、岡山藩の閑谷学校、水戸藩の弘道館の3校を併せた総称です。この他に“日本三大藩校”の呼び名もあります。
■長州ファイブ
井上馨の他に造幣の父と呼ばれる遠藤謹助や、初代内閣総理大臣となる伊藤博文。鉄道整備に尽力し日本工業の父と呼ばれる山尾庸三。鉄道の父の異名を持つ野村弥吉の、イギリスへ密航した5人を指します。
西洋文化を吸収し、日本の近代化に尽くした所がその名前の由来とされています。
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