丸山晩霞(まるやまばんか)は1867年5月に長野県で生まれました。貿易商であった父が家に持ってきた錦絵などを幼い頃から目にしていたことがきっかけとなり、画家についての興味を向けたと言われています。20歳になり上京し画塾の彰技堂に入ると、洋画家の本多錦吉郎から絵を学び、明治美術会に作品を発表しました。
その後1895年には群馬県にて『雲表』や『雲叡深秋』が知られている吉田博と会い、氏の描く水彩画に強い感銘を受けたと言われています。また1899年には、その吉田博がきっかけで『雨のノートルダム』や『伊太利ヴェロナの古橋』などが知られている洋画家の三宅克巳とも知り合い、アメリカに行くことを勧められました。その為、まもなく33歳の時から約1年をかけて画家の河合新蔵や満谷国四郎と共に、アメリカを含む欧州、またシンガポールなどアジア地域の一部にも訪問。滞在中は水彩画展を開催して大きな評判を得るなどの経験をしました。さらに帰国後の1902年には、浅井忠が立ち上げた洋画団体・明治美術会を元にした太平洋画会を設立。40歳になる頃には日本水彩画会研究所を立ち上げ、同年、文部省美術展覧会の場において『白馬の神苑』を発表しています。
やがて1908年には日本山岳会会員となり、翌年には日本画風の水彩画作品『和装水彩』を発表。1911年からは、再び一年間、再度欧州エリアへと渡り帰国後の1913年には日本水彩画会を設立しました。
晩年も積極的に制作活動を行い、1942年、76歳で息を引き取りました。
丸山晩霞は自身を田園画家と名乗るほどの強い愛着をもって、故郷の山河やまた国内外の他の地の風景画を残している所に特徴があります。時には植物を旅先で手に入れ育てたりするなどして、コマクサやシャクナゲと言った高山植物も描いていきました。
日本画と洋画のテイストが合わさっている独自の作風も評判を呼んでいます。
また作風には変化のある時期もあり、細かな風景画を描いたり、屏風や掛け軸作品、南画的テイストが感じられる絵も発表しました。
丸山晩霞の評価部分は?
丸山晩霞は後進の指導にも優れており、住み込みの弟子として洋画家の小山周次がいたり、太平洋画会や日本水彩画会の設立に携わっている点も、後輩を育てる基盤となっています。
美術団体については日本の水彩画が海外に知られるきっかけになったともされており、作家活動としての実績もあって、三宅克己や大下藤次郎と共に水彩画専門の画家と呼ばれています。
他の代表作
1907年の文部省美術展覧会発表作品である『白馬の神苑』。
『春の川辺』や『千曲川(橋)』などがあります。
■本多錦吉郎(ほんだきんきちろう)
1851年生まれの洋画家で広島藩士でもありました。画塾を持ちながらも陸軍士官学校で教師としても務めており、作品としては油彩画のものが数少なく発見されていましたが、2016年に水彩画が見つかりました。
■太平洋画会
1889年に浅井忠や小山正太郎など共に結成された、明治美術会が元になっています。
白馬会と並ぶ日本美術における二大勢力と言われており、1929年に太平洋美術学校として開かれたりするなど、その活動は令和の今も続いています。