ヘンリー杉本(ヘンリー・ユズル・スギモト)
ヘンリー杉本は1900年3月に
和歌山県海草郡で生まれました。
日本での名前は杉本謙と言います。
19歳になると両親がアメリカに住んでいた関係で
自身もヘンリーと名を改めアメリカに移り住みました。
その後、日本で育ての親となった祖父がきっかけで
絵を描いてきたことが影響し、
画家になる事を決心します。
そしてカリフォルニアにある
オークランド芸術大学に入り、また1929年には
パリに渡り在学中の1931年に、
サロン・ドートンヌに入選しました。
翌年はサンフランシスコ世界博覧会美術展で
金賞を獲得するなど、アメリカで名声を得ていきます。
ところが1941年には戦争の影響で
日系人である為に強制収容所へ入所。
この経験は以降の作品群政策への
大きな影響となりました。
収容所から出た後はニューヨークで生活
及び作家活動を行いますが、
1964年に一旦日本に帰り二科展で活躍。
収容所での日系人としての日々を伝える作家として
日本でもその名を広め、
1990年5月に息を引き取っています。
代表作としては『息子の負傷』、
『キャンプ・シーン』などがあります。
作風
ヘンリー杉本は前述の通り収容所に強制的に入れられた
日系人の苦悩を描いた作品群がよく知られています。
日本人の血が混じっているのもあってか
アメリカに対して誠実である事を強く求められ、
その心情や収容所での生活を
作品内で表現していきました。
それらはアメリカや日本に対して
苦労を伝える機能も果たし、
1983年にアメリカで行われた公聴会では
『キャンプ・シーン』に描かれている内容が
2万ドルの補償金と共に認められました。
また日本においてもヘンリー杉本の描いた作品が
1980年に公開される形となり、
勲六等単光旭日章となったり、
死後の2007年には和歌山市から
「偉人・先人顕彰」として認定されています。
戦争に翻弄されたヘンリー杉本
収容前であっても国際的な賞を獲得するなど、
それについては血筋の偏見なしに
一人の人間として立派に認められてきたと言えます。
ところが戦争により人種差別を受けたのは、
皮肉な出来事のように感じます。
それでも収容中の出来事を描いた作品は
記録画として認められ、
1952年にアメリカの市民権を獲得したのは
幾分でも心の癒しになったと思います。
なお故郷の和歌山県は
多くの移民を出してきた県でもあり
それもまたヘンリー杉本が、和歌山を
代表する人物となる一因になっているようです。
片づけ始める前にご相談ください
眠っている品物に思わぬ価値がある場合があります。
遺品整理業者・リサイクル業者は、骨董美術品類に高額をつけることはできません。
さらに処分費もかかります。無料査定・買取で賢い遺品整理・蔵整理をお勧めいたします。
買取専門店KURAYAは,骨董品,金・プラチナ、ブランド品、ブランド時計、ダイヤモンド、切手、古銭、勲章、日本刀・鎧兜、掛け軸・絵画、版画、おもちゃ・ノベルティ、 高級食器、珊瑚、翡翠・鼈甲・琥珀、カメラ、鉄道模型,、着物・小物、鉄瓶・茶道具 ,墨・書道具など確かな目で高額買取いたします。
買取専門店くらやは、新しいもの・古いもの、どんなお品も対象に鑑定する買取専門店としてオープンいたしました。貴金属・ブランド品買取をはじめとし、 古物・切手の買取・骨董品の買取に力をいれております。 ご自宅に眠っている貴金属・ブランド品・骨董品などはございませんか?古物・貴金属・ブランド品などを整理したい方、 現金が必要な方、お引越しで荷物を整理したい方、遺品整理、古い蔵を取り壊して中身を処分したい方など、様々なお客様からご利用いただいております。
新しい物・古い物、どんなお品も対象に査定する