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2020.05.01
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渡辺小華【日本画家】

渡辺小華(わたなべしょうか)

 

渡辺小華は1835年1月に江戸麹町

 

(現在の東京都千代田)にて生まれました。

 

なお父は洋画含む数多くの技法を学び

 

肖像画が特に優れていると言われている

 

渡辺崋山として知られています。

 

しかし父は渡辺小華が子供の頃に自害し

 

その後渡辺小華は1847年に福田半香と

 

穏やかなタッチと色合いで知られている椿椿山から

 

絵について学び、椿椿山が亡くなると今度は

 

花鳥画から山水画に切り替えて作品を展開する

 

福田半香から指導を受けていきました。

 

一方で大橋訥庵からは歴史を

 

関根痴堂からは詩文について教わっています。

 

幕末時には三河田原藩の藩老として努めますが

 

明治維新後の1874年に豊橋にて画塾を開き、

 

後進の指導を行います。

 

画家としての実績は1877年の

 

第1回内国勧業博覧会や

 

1882年の第1回内国絵画共進会の場においての

 

出品及び受賞。

 

また明治宮殿の杉戸絵を製作するなどしています。

 

そして1887年12月、53歳で息を引き取っています。

 

 

 

作風

 

花鳥や水墨山水画、人物画が有名です。

 

 

 

渡辺崋山からの連なりについて

 

・父の渡辺崋山

 

渡辺崋山は画家としても優れており

 

10代の時点で絵描きで生計を支えていました。

 

佐藤一斎からは儒学を。

 

谷文晁からは南画について教わっており

 

西洋画の技法を当て込んだ

 

写実的作風である事も知られています。

 

また武士でも自身の考えを文書として

 

発表していきましたが、

 

1837年に起こった外国船に砲撃を行った

 

モリソン号事件について

 

「慎機論」を出した事を受けて処罰。

 

そこから自害となりました。

 

・福田半香と渡辺崋山の関係性

 

福田半香は渡辺崋山の弟子でもありました。

 

蛮社の獄と呼ばれるモリソン号の事件で

 

幽閉の身となった渡辺崋山を助けようとして

 

福田半香は渡辺崋山の絵を売る事としました。

 

ところが世間からしたら

 

「獄中の身であっても渡辺崋山は

 

全く反省しようとしていない」と捉えられ

 

後々の身の回りの影響を考えた渡辺崋山は

 

自害してしまいました。

 

 

 

遠州画壇の系譜として繋げた渡辺小華

 

中国から伝わった南宗画を元にした南画は

 

谷文晁によって江戸にて広まり

 

また谷文晁から渡辺崋山。

 

渡辺崋山から福田半香へと続いていきます。

 

そして福田半香から教わった渡辺小華には

 

飯塚香山や山本愛山。兼子東雨

 

などと言った弟子達がいます。

 

これらは遠州画壇の系譜でもあり

 

渡辺小華は遠州画壇を盛り上げていった

 

と言われています。