Useful お役立ち情報
2021.01.14
骨董品
時計
ブランド品

桂太郎とは【政治家/軍人/経歴/書】

桂太郎(かつらたろう)の生い立ちは?

桂太郎は1848年に山口県で生まれました。なお父は長州藩士の桂与一右衛門信繁です。藩校の明倫館に通ったほか、岡田玄道と藤田与右衛門の2人から和漢学について教えを受け、さらに10代前半には洋式銃の扱いを学んだことで、藩の小隊司令に就任する才能をみせました。

以降は1866年に起こった第二次長州征伐(四境戦争とも言います)、また鳥羽・伏見の戦いが皮切りの戊辰戦争にも参加。戊辰戦争においては奥羽地方鎮撫総督を務めています。なお戊辰戦争と同年には横浜語学所にて学び、まもなく兵制について深く知る為にドイツへ留学しました。それから日本に戻り陸軍歩兵大尉として務めるなどし、約2年後となる1875年にドイツ公使館付武官として再びドイツに渡っています。

帰国後は陸軍卿・山県有朋のサポートを受けながら、兵制・陸軍官制の改革を決行。少将や第三師団長を務めるなどと言ったように軍人として功績を重ねていきました。

やがてこの間に開戦した日清戦争に参加するなどの活躍が認められ、1895年に子爵の地位を授かります。さらに1896年には健康上の理由で当初は否定的であったものの、台湾総督に就任し、1901年には第一次桂内閣を結成。就任中には西園寺公望と交代で政治指導を行う「桂園時代」と呼ばれる時期が続き、日英同盟の締結を成功させました。また日露戦争や日韓併合などにも携わっています。

 

内大臣から総理として再就任するなど、明治時代から大正時代にかけて、軍人としてだけでなく政界でも要職を歴任しましたが、晩年は病に倒れ、1913年に息を引き取りました。

 

 

 

桂太郎の活動は?

桂太郎はこのように軍人としての手腕を振るった後、明治維新以降は政治家としても活躍をしているのが特徴です。

またドイツ留学で培った兵制を導入し、またドイツ華文字の帽章を決定。他には1903年に獨逸学協会学校の商議員にもなっています。

 

 

 

桂太郎の評価は?

合計で3度首相を務め、安倍総理大臣がその記録を更新するまで、通算勤務日数歴代一位であった事は特に有名です。

また陸相として軍備拡大を積極的に行い、弾圧も決行。その中でも特に、1910年の幸徳秋水や管野スガが処刑に追い込まれた大逆事件が有名です。

 

代表作

 

1908年発表の国民に広く伝えるための詔書である『戊申詔書』。日露戦明けの人々の享楽主義と社会主義を律するために発行されました。なおこれは『朝日新聞復刻版明治編187』に全文掲載されています。

そのほか国立国会図書館の所蔵の山県有朋への意見書。桂太郎自伝の為の関連資料などがあります。

 

 

 

各ワード紹介

■桂園時代

1903年から1913年にかけての、桂太郎と西園寺公望が交代して政権を行った時期を指します。

妥協や協力関係もあったされる二人ですが、政権のたらい回しや非立憲制と言った批判もあり、強く関係していた政友会との関係を桂太郎が切ったのをきっかけとしてその時期は終了しました。

 

■西園寺公望(さいおんじきんもち)

184910月に生まれ戊辰戦争に加わりフランスに留学した経験や、ジョルジュ・クレマンソーや中江兆民と交流した事で、自由思想について考えるようになりました。

帰国してからは明治法律学校を立ち上げ、また自由民権運動を行い外交官や文部大臣としても務めています。