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2019.11.22
ブランド品

山本鼎【洋画家】

山本鼎(やまもとかなえ)

 

山本鼎は188210月に愛知県岡崎市で生まれました。

 

1903年に東京美術学校西洋画科選科に入り

 

翌年には歌人で新詩社を立ち上げた事で知られている

 

与謝野鉄幹が開く明星にて、『漁夫』を公開します。

 

1906年には同校をトップの成績で卒業。

 

また次の年には水墨画や、日本的雰囲気の感じられる

 

洋画を手掛けた事で知られる森田恒友。

 

日本水彩画会などを開いた石井柏亭達と共に、

 

文芸雑誌である方寸を発表しました。

 

30歳になると結婚相手との話が難しくなった事から

 

パリに渡り、苦しい生活を強いられながらも

 

作品制作を行い、

 

エコール・ド・ボザールで学んでいます。

 

そして1916年に日本に帰ると

 

児童自由画教育と農民美術運動を行い、

 

子供の教育能力向上と農民の生活安定を目指しました。

 

またその2年後には日本創作版画協会を立ち上げ

 

創作版画の発展に努めています。

 

1946年、64歳で息を引き取りました。

 

 

 

作風

 

山本鼎の作品は生活感がありありと現れた、

 

版画が有名です。

 

明星で『漁夫』を発表した頃から

 

その作風は発揮されてきており、絵描きから彫り、

 

印刷まで普通は各担当の者が行うものを

 

一人で行った点も注目されました。

 

またパリでの留学中に、

 

よりその方向性が固まった趣旨の発言をしていますが

 

『湖畔の春』などその頃発表した作品群は、

 

明るい色彩感覚が特徴です。

 

 

 

行ってきた運動

 

■児童自由画教育について

 

子供の自由な発想について大切に考えていた山本鼎は

 

当時の小学低学年の図画工作の時間に

 

改革の必要性を訴えました。

 

図画工作は当時、

 

先に作られた作品の模倣をしているので

 

それでは子どもたちの観察眼や感性が養えない

 

と言った趣旨を発言しています。

 

1919年に第1回児童自由画展覧会を開催と

 

具体的な形で行い、評判を呼び

 

全国に知れ渡りました。

 

 

 

■農民美術運動

 

農民が作業に休止期間が出る時期、美術品を作り

 

そして収入を得るようにすると言った運動です。

 

山本鼎自身の生まれ故郷で、

 

生活に苦しむ姿を見てきたので

 

ロシアの生活スタイルを参考に提唱しています。

 

しかしこちらは戦争の混乱と重なり

 

上手く成功しませんでした。

 

 

 

■日本創作版画協会

 

版画の地位向上を目的に、方寸を出した時期から

 

活動が開始されています。

 

様々な芸術家達が参加し、第二次世界大戦直前まで

 

活発に動いたなど、大きな運動となりました。