山本鼎(やまもとかなえ)
山本鼎は1882年10月に愛知県岡崎市で生まれました。
1903年に東京美術学校西洋画科選科に入り
翌年には歌人で新詩社を立ち上げた事で知られている
与謝野鉄幹が開く明星にて、『漁夫』を公開します。
1906年には同校をトップの成績で卒業。
また次の年には水墨画や、日本的雰囲気の感じられる
洋画を手掛けた事で知られる森田恒友。
日本水彩画会などを開いた石井柏亭達と共に、
文芸雑誌である方寸を発表しました。
30歳になると結婚相手との話が難しくなった事から
パリに渡り、苦しい生活を強いられながらも
作品制作を行い、
エコール・ド・ボザールで学んでいます。
そして1916年に日本に帰ると
児童自由画教育と農民美術運動を行い、
子供の教育能力向上と農民の生活安定を目指しました。
またその2年後には日本創作版画協会を立ち上げ
創作版画の発展に努めています。
1946年、64歳で息を引き取りました。
作風
山本鼎の作品は生活感がありありと現れた、
版画が有名です。
明星で『漁夫』を発表した頃から
その作風は発揮されてきており、絵描きから彫り、
印刷まで普通は各担当の者が行うものを
一人で行った点も注目されました。
またパリでの留学中に、
よりその方向性が固まった趣旨の発言をしていますが
『湖畔の春』などその頃発表した作品群は、
明るい色彩感覚が特徴です。
行ってきた運動
■児童自由画教育について
子供の自由な発想について大切に考えていた山本鼎は
当時の小学低学年の図画工作の時間に
改革の必要性を訴えました。
図画工作は当時、
先に作られた作品の模倣をしているので
それでは子どもたちの観察眼や感性が養えない
と言った趣旨を発言しています。
1919年に第1回児童自由画展覧会を開催と
具体的な形で行い、評判を呼び
全国に知れ渡りました。
■農民美術運動
農民が作業に休止期間が出る時期、美術品を作り
そして収入を得るようにすると言った運動です。
山本鼎自身の生まれ故郷で、
生活に苦しむ姿を見てきたので
ロシアの生活スタイルを参考に提唱しています。
しかしこちらは戦争の混乱と重なり
上手く成功しませんでした。
■日本創作版画協会
版画の地位向上を目的に、方寸を出した時期から
活動が開始されています。
様々な芸術家達が参加し、第二次世界大戦直前まで
活発に動いたなど、大きな運動となりました。