寺島紫明は1892年11月に兵庫県明石市で生まれました。なお本名は徳重と言います。小学校に入った時期から絵や文学作品について好むようになり、高等小学校を卒業すると雑誌投稿をして入選経験を得るなど、若い頃からその才能を表していました。
その後17歳になってから、しばらくは父と母が相次いで亡くなるなど家庭環境が大きく変わる事態が続き、次第に作家活動から離れていきます。一方で画家となることを本格的に志しはじめた寺島紫明は、1913年から鏑木清方に師事することとなりました。
こうして腕を磨きながら、26歳の時には長田幹彦の文学作品『青春の夢』の挿絵を担当。また1927年の第8回帝国美術院展覧会では、出品した『夕なぎ』が初入選を獲得します。この時点で30代半ばとなっていた寺島紫明でしたが、以降は日本美術展覧会や文部省美術展覧会の場においても数々の賞を獲得していくと言う名誉を重ね、特に1942年の第5回新文部省美術展覧会で出した『秋單衣』は特選となり、李王家の買い上げ作品にもなりました。さらに1961年の第4回新日本美術展覧会の『舞妓』が文部大臣賞を受賞した事は、寺島紫明の経歴の中でも特筆すべきものもひとつでもあります。
他には山口華楊や奥村土牛ら画家仲間と共に、九皐会の活動に加わったり、日本美術展覧会の審査員や参与としても就任。後年は舞妓を主題にした作品を多く残し、1975年1月、82歳で息を引き取りました。
寺島紫明の作品は美人画を得意しているのが特徴です。実際に師事関係の鏑木清方が同じように美人画を得意としていた為、寺島紫明自身も美人画を多く描くようになったと言われています。
また寺島紫明の美人画の特徴としては女性的な色気が含まれていますが、今で言うスレンダーと言うよりもふっくらした表現の女性となっています。またそれを静けさの漂う色調で描き出していると言うのが、寺島紫明の持ち味ともいえるでしょう。
なお前述の通り、活動終盤時期には舞妓を題材にした作品を多く発表し、文部大臣賞や日本芸術院恩賜賞などの賞を受章しました。
他に寺島紫明の描く女性像は、情の奥深さに迫っていると言われています。また上記で挙げたような寺島紫明の作品の特徴は、鏑木清方の磨き上げたような女性像に共感をした上で出来上がったものとして言われていたりします。
ちなみに寺島紫明は意外にもモデルを使っていないため、デッサン的に脆いものがあると言った指摘もあります。
他の代表作
1960年第3回新日本美術展覧会に発表した『三人』(東京国立近代美術館が所蔵)。
1946年第2回日本美術展覧会に出した『彼岸』(京都国立近代美術館が所蔵)などがあります。
■鏑木清方(かぶらききよかた)
1896年11月に生まれ、上村松園と並び立つ美人画の名手となった画家です。2019年6月に『築地明石町』『新富町』『浜町河岸』の3部作を、独立行政法人国立美術館が個人所有から購入して発表したニュースが話題となりました。76歳の時に文化勲章を受章し、現在、鎌倉市には記念館が建てられています。
■九皐会の他の代表的な画家について
・山口華楊
山口華楊は幼少期から動物のスケッチを好んでおり、動物画や花鳥画を得意とする西村五雲から学び、画業としても円山四条派を受け継ぎながらもみずみずしい生命感のある動物画を描いていきました。
・奥村土牛
奥村土牛は101歳となる大長寿でありながらも、最期まで画家として取り組んできた事で知られています。小林古径と梶田半古から学んだ事を生かして、「絵画には画家の内面性が出る」と言う信念のもと発表していきました。