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2020.09.17
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太田聴雨【日本画家/宮城県/掛け軸/絵画】

太田聴雨の生い立ちは?

太田聴雨(おおたちょうう)は1896年に宮城県仙台市で生まれました。なお本名は栄吉と言います。

幼い頃に両親が離婚したことで祖父に育てられましたが、1911年に父をあてにして上京。現地ではまもなく四条派の日本画家である内藤晴州に師事し、住み込みをしながら学びました。こうして17歳になると、巽画会第13回展にて『鏡ヶ池』が初入選となるものの、同時期に師の元に住み込みでいることが不可能となり、父の家にて暮らすようになります。勤務と仕事終わりに絵を描くと言った日々を過ごし、1918年には横山葩生や小林三季とで、展覧会を行うための青樹社を設立。なお4年後、20代半ば頃には第一作家同盟を結びますが、1923年に起こった関東大震災で画家としての手を止めざるを得なくなります。また青樹社も大震災の影響を大いに受け、資金が上手く調達できないことで活動終了となってしまいました。

やがて1927年になると、小林三季の勧めで、肖像画のみならず花鳥画や歴史画なども描いた前田青邨の下で再び絵を学び直していきます。当初は院展に作品を出品するも良い結果が得られずにいましたが、1930年に制作した、当麻寺の中将姫伝説を元にした作品『浄土変』が第17回日本美術院展覧会発表作にて美術院賞を獲得。これをきっかけにその名声を広めていき、1936年には同人に選ばれると同時に、文部省美術展覧会の場で出した『星を見る女性』は文部省が購入となります。

 

50代半ばには東京芸術大学の助教授となり、以降息を引き取る1958年まで勤め上げしました。

 

 

 

太田聴雨の作品の特徴は?

太田聴雨は分かりやすい画面構成と色彩の人物画。さらに花鳥画や歴史画、現代の風俗も描いていると言ったように幅広いジャンルを描いている所に特徴があります。

これらの作品は古くから受け継がれている伝統性がありながらも、上品で無駄が感じられない画風が感じられると言った評判もあります。

 

 

 

太田聴雨の他の評価部分は?

太田聴雨の幅広い作風は、前田青邨から教わったのみならず、小林古径や安田靫彦からも触発され、特に歴史画に関しては新しい作風を提示したと言う評価もなされています。また『種痘』や『星を見る女性』と言ったような、女性を描いた作品もあるのです。

しかし太田聴雨の両親は生まれてからすぐに離婚したために、「母親から受けなかった愛情を求めて描いている」と言った趣旨の発言を残しています。

 

代表作

 

1934年発表の『種痘』(京都市京セラ美術館が所蔵)は、女性の医療関係者が同性の患者と接していると言う珍しいと思われる内容です。他は望遠鏡にて星を覗く女性たちを描いた『星をみる女性』は1936年に発表。(東京国立近代美術館が所蔵)

1942年に発表の『山陽母子』(1942)は(東京国立近代美術館が所蔵)などがあります。

 

 

 

各ワード紹介

■前田青邨(まえだせいそん)

1885年に岐阜県中津川市に生まれました。あえて他の色を混ぜ込むにじみ技法の、たらしこみ描法と洗練された線が特徴と言われており、1955年に文化勲章を獲得しています。

 

■第一作家同盟

『伊勢物語』や『源氏物語』と言った平安時代の文学作品をテーマにした作品群が有名な真野満も在籍。

さらに第一作家同盟の他に旧アクションや旧未来派美術協会などの他団体の画家たちと合わせて三科が生まれたと言う背景があります。