大内青圃(おおうちせいほ)
大内青圃(本名:正)は1898年12月に
東京市麻布区で生まれました。
父は曙新聞や明教新誌、江湖新聞を
立ち上げた事でも知られている、
仏教学者の大内青巒(せいらん)。
兄は洋画家の大内青坡と
芸術方面に明るい家庭でもあります。
そのため幼い頃から父に仏教や篆刻について
兄からは絵画と素描について教わっていました。
1922年に東京美術学校彫刻科木彫部を出ると
日本の近代彫刻の第一人者である
高村光雲から木彫について教わり、
水谷鉄也からは塑造の技術を習得しています。
1924年に第11回再興院展において『羅刹婆』が初入選。
翌年の再興院展では『龍女』。
1926年の第13回再興院展『習作(頭部)』と
再興院展でも受賞を重ね、1960年の
第45回院展『龍女献珠』においては
文部大臣賞を獲得します。
1965年には埼玉県熊谷市にある曹洞宗の寺院である
報恩禅寺の為に『釈迦牟尼仏』と『摩阿迦葉』。
『阿難』の三尊と、『鬼王焔摩天』を制作。
1968年には永平寺東京別院長谷寺の為に
『十一面観音像』の制作を開始。
10年間ほどの時間を掛けて完成させ、
クスノキを一本分使ったその作品は
最後の大作となります。
1981年2月、83歳の時にこの世を去りました。
作風
大内青圃の特徴は独創的でありながらも
父の影響を受け継いだ信仰心のある、
まるで童心に返ったような
優しい雰囲気の仏教彫刻を作り続けた所にあります。
クスノキについて
クスノキは生まれてから
1000年以上も経っているものもあり、信仰の対象とされ
よく神社に植えられています。
なお長崎県の山王神社にあるクスノキは、
1945年の原爆投下に耐えた逸話が残されており
神社と合わせて世界平和について
これからの未来に訴える重要な意味合いを持つ
と言えます。
一方で素材としてのクスノキは、
柔らかく加工のしやすさもあり
その為今でも多くの彫刻家がクスノキを使用しています。
また保存性にも優れ虫を寄せ付けず、
磨けば光沢が出ると言った良さもあります。
大内青圃を通した平和についての作品制作
十一面観音像は、戦争で焼失した十一面観音像を
再び作り上げると言う目的も持っていました。
おそらく山王神社のクスノキが
長崎の原爆から残ったと言うのは、
大内青圃の耳にも届いていたと思います。
そして大内青圃は一貫して、
人が生まれてから死ぬまでの一連をテーマとしており
幼い頃に父と兄から教わった頃から現在に至るまでも
それを投影して作品を作り続けてきた面もある
と考えられます。
平和について考えながら
人間をモチーフにした作品製作は、
これからの世の中でも普遍的なものとなって
続いていきます。