夏目漱石(本名:金之助)は、1867年1月に東京で生まれました。生後間もない頃に養子となり1879年頃には中学へ進学。しかし、漢詩文をはじめとした漢学や、文学についても学びを深めたいと考えていた夏目漱石は、入学から2年後、漢学を教えていた二松学舎に入学し直し、さらにその後、英学塾成立学舎にて学んでいます。こうして17歳の頃に大学予備門に入学すると、在学中には正岡子規と交友を深めました。
まもなく夏目漱石は東京帝国大学英文学科へ入ることとなり、同校では学業の優秀さから外国人の教授に『方丈記』の英訳を任せられるなどし、20代半ばの頃に卒業。在学中から学費のために教壇に立つこともあった夏目漱石は、卒業後も教職につき、松山の愛媛県尋常中学校で英語を教えたり、1900年のイギリス留学後は、高等師範学校や東京帝国大学などで教鞭を執っています。
ところが生徒からの授業に対する評価は高くなく、また生徒が自殺をした事で精神を病み始めた為、それを和らげる目的で小説の執筆を開始。これは高浜虚子からの勧めによるものでしたが、処女作の『吾輩は猫である』を書き上げると好評を受け、翌年には正岡子規が主立って立ち上げた雑誌『ホトトギス』上にて同作を発表しました。それからは『坊っちゃん』などをはじめ次々と作品を発表し、作家としての名を広めていきます。1907年には創作に集中できる環境をと言う事で朝日新聞社へ入り、数々の作品を生み出していきました。
晩年は体調を崩しながらも執筆活動を並行していましたが、『明暗』を執筆中の1916年、49歳の若さで息を引き取りました。
様々な作品を発表している夏目漱石ですが、1908年発表の『三四郎』に続く『それから』と『門』は前期三部作と呼ばれており、青春小説とも位置付けられています。
また人間の負の部分を表現した自然主義文学への反対趣旨を『倫敦塔』や『坊っちゃん』などで表現。これらは反自然主義文学と呼ばれ、夏目漱石のみならず森鴎外など様々な作家の主流ともなりました。
一方で『こゝろ』や『明暗』などで、エゴイズムの問題を追求し、『こころ』と『彼岸過迄』、1912年発表の『行人』は合わせて後期三部作と位置付けられています。
時代のトレンドに乗ることに懐疑的だったと言う指摘がありますが、現代人の内面を皮肉った作品の発表や、同時に人間賛歌も行ってきた事で、一大作家として名を馳せるようになりました。
また英学塾・成立学舎での通学を皮切りに英語の語学能力が注目され、東京帝国大学英文学生時代は特待生となっています。
他にも俳句は3000句ほど残し、文人画を描いたりもしました。
他の代表作
1906年発表の中編小説の代表作品の『草枕』。
また40代の頃には、前期三部作の一つである『それから』。エゴイズムについて追求した時期の代表作と言える『こゝろ』(いずれも東北大学附属図書館が所蔵)などを発表しています。
■正岡子規
俳人で俳句雑誌の『ホトトギス』を立ち上げ、また夏目漱石に執筆を薦めた高浜虚子や、正岡子規の後継者と言われている伊藤左千夫らなどの後進を育てました。
野球の趣味である事から、野球で使われている用語を日本語に訳した事も知られています。
■坊っちゃん
夏目漱石が1906年に発表した中編の小説作品です。
四国の中学に務めるようになった教師の悪戦苦闘の日々が描かれています。
夏目漱石自身の愛媛県尋常中学での在籍時の経験が背景となっており、自身の若い頃の血気盛んな行動を生徒達に面白い話しと聞かせるなど破天荒で、坊っちゃん中の主人公の性格と被ると言われています。