北村治禧(きたむらはるよし)
北村治禧は1915年1月に長崎県島原市で生まれました。
父は『長崎平和祈念像』や『晩鐘』が知られる
男性裸像を得意とする彫刻家・北村西望として
知られています。
北村治禧は1933年に東京美術学校彫刻科に進学し
在籍中の1936年に文部省美術展覧会に出品した作品
『少女』で、学生ながらも初入選となります。
その後1939年に東京美術学校彫刻科を卒業し
1943年の新文部省美術展覧会では『髪』が特選。
またその4年後の文部省美術展覧会でも
同じく特選を受賞しました。
1968年には『光る波』が日本美術展覧会で
日本芸術院賞を獲得するなど、
文展や日展などの日本の芸術界で
存在感を知らしめていきます。
また日本彫塑会でも作品を発表し、1970年には
日本彫塑会理事に就任。
さらに1985年には日展事務局長も務めました。
そして2001年8月、86歳でこの世を去っています。
作風
北村治禧は、写実的な確かな技術力が感じられる
作品作りで知られています。
父の北村西望は勇ましさの感じられる
力のある作風であり、その影響も受けている
との指摘もあります。
また詩情性のある女性像も有名ですが
妖精シリーズも代表作であり
ブロンズで作られていることが多い
と言った特徴もあります。
■ブロンズについて
銅と錫などを合わせたもので、銅像との違いについて
しばし議論されています。
しかし銅像も同じ様に錫が使われているために
違いはないと言われています。
また銅像もブロンズ像も基本的に銅を85%、
錫などを15%混ぜて作りますが、
割合や焼いた場所の環境などで、
色合いに差が生まれたりします。
■日本彫塑会
イギリスの王立美術院である
ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで学び
『秋』や『敗残』が知られている齋藤素巖が
1962年に日本彫塑家倶楽部から
名前を日本彫塑会と名前を変えました。
日本彫塑家倶楽部は1953年2月に誕生しており
現在は日本彫刻会と名を変えていることを顧みると
実に60年以上の歴史を持っている事になります。
現在にも受け継がれている真摯な彫刻造り
北村治禧は日本において彫刻界の地位を
より固めた一人であると言えます。
2019年現在、日本彫刻会において
理事長を務めるのは神戸峰男で、
「1ミリの違いで表現したいものが変わってくる」と
具象彫刻を大切に作っています。
彫刻としての真摯な作りは
現在にも受け継がれていることになります。