狩野友信は1843年4月に江戸の築地にて生まれました。また父は浜町狩野家8代当主で絵師でもある狩野董川中信として知られています。幼少期から狩野勝川院雅信の下に入り、また江戸幕府の末期時代になると川上冬崖やチャールズ・ワーグマンから、洋画について学びました。
アーネスト・フェノロサなどによる鑑画会での活躍が有名で、また16歳と若い内から江戸幕府14代目将軍の徳川家茂の奥絵師となっています。また後進の指導を積極的に行い、例えば1879年から開成学校や東京大学予備門の場に務めたり、1891年に東京美術学校の助教授ともなりました。そして1912年7月、69歳で息を引き取りました。
ちなみに春川や一青斎と言う名前で活躍しています。
狩野友信は奥絵師として、江戸幕府の最も名誉が高いと言われるお抱え絵師として活躍しました。また浜町狩野派の9代目としても名高く、幕末から明治期にかけて最後の奥絵師や狩野派の画家としても、華々しい活躍になったと現代に伝えられています。それに狩野派として伝統に則っているだけではなく、新しい作風についても考えていきました。
狩野友信は奥絵師として毎月決まった日に江戸城の御絵部屋に出向いて装飾画などに携わったり、イギリスとアメリカに向けた掛物絵にも関わっています。世界を股にかける活躍とも言えます。
■代表作
1885年発表の『松下人物』や同年発表の『羅漢』。1886年発表の『鷲図』などがあります。
■アーネスト・フェノロサ
1853年2月にアメリカで生まれた哲学者及び東洋美術研究家です。1878年に外国人教師として雇われた為に来日したのですが、日本の美術に目を向けたアーネスト・フェノロサは1887年に岡倉天心と共に東京美術学校を設立しました。また狩野友信から狩野派や古画の見方について教わっている他、狩野永悳や狩野芳崖と言った狩野派の画家を紹介されました。
■狩野派
室町時代の中盤に始まりました。狩野正信が始まりですが初期の明治時代にまで及ぶ活躍の基礎は、二代目の狩野元信からとされています。粉本主義と言われる伝統的な描き方に沿ったやり方を行っていきましたが、やがて創造性が乏しいと批判されるようになり、その批判から抜け出すために狩野派画家達は様々なテイストを取り入れた指摘もあったりします。
よって狩野友信の前述の特徴もその一つだと考えられるのです。