中原悌二郎(なかはらていじろう)
中原悌二郎は1888年10月に
北海道釧路で生まれました。
港町の風土を強く受け継ぐような父と兄の
手厳しい態度に嫌気が差しており、
その事が原因で9歳の頃に自らの意思で
旭川にて叔父の養子となっています。
この移住は功を奏し、叔父には可愛がられ
学校でも優秀な成績収めていきました。
その後17歳になると学校の美術教師の影響を受けて
画家に憧れたため、北海道庁立札幌中学校を中退し上京。
翌年には白馬会研究所に入ります。
1908年には
一人の女性をモチーフにした作品が知られおり、
またロダンから技術を教え込まれた荻原守衛によって
彫刻家に転身することを決意しました。
そして、騎兵科にいた経験を活かした
馬の像の制作に長けていた、新海竹太郎から
彫刻を学び始めています。
やがて28歳の時には再興日本美術院の研究所に入り
彫刻家の平櫛田中と知り合い親友となりました。
2年後には同会の同人となっていますが
1921年3月、32歳の若さでこの世を去っています。
作風
中原悌二郎の作品はロダンの作風に強く影響された
力に溢れた作風が知られています。
活動初期は、写実性を重視していた
これまでの彫刻作品と違っていたのもあり、
周囲には微妙な反応をされてきましたが
出展し続ける度にその評価は見直されていきました。
特に代表作である『若きカフカス人』は
ロダンの助手に「これこそが彫刻である」と評価され
『蜘蛛の糸』で知られている小説家の芥川龍之介には
「この躍動感は、まるで生きているみたいだ」
と絶賛されました。
『若きカフカス人』について
『若きカフカス人』は1919年に制作された作品です。
当時日本に来ていたロシア人のニンツアをモデルにして
第6回日本美術院展覧会用に、友人でもある
中村彝のアトリエにて作品作りを開始しました。
ニンツアとの仲は上手くいかず
2週間のみの制作期間となったものの、
簡易的でありながらも力に溢れ、観察力にも長けた
傑作として作品は残ることになります。
なお中原悌二郎は
作品作りに厳しい人として知られており
自身が納得いかないと壊してしまうという
理由も起因して、現存する作品は
12点しか確認されていないと言われています。
よってこの『若きカフカス人』も
中原悌二郎が思う所があったら自ら壊し、
このように人々に称賛され知られる事が
なかったかもしれない作品の1つだととらえられます。
関連用語の解説
■白馬会絵画研究所
1896年に明治美術会から離脱した、
外光派して知られている黒田清輝と久米桂一郎を
主にして設立した白馬会に関連しています。
白馬会では展覧会を毎年開いていましたが
白馬会絵画研究所はフランス語含む
ありとあらゆる指導を行っていました。
■再興日本美術院
元の日本美術院は明治美術界を率先して指導した
岡倉天心が1898年に結成。
メンバーは岡倉天心を含め、元は東京美術学校に
在籍していた芸術家たちで構成されていましたが
1913に岡倉天心はこの世を去ってしまいました。
その為、新たに文化功労者となった横山大観や
大和絵と琳派などが知られている下村観山が
主となって再興しました。
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