小糸源太郎は、1887年に東京で生まれました。
17歳のときに神田中学校を卒業後、
白馬会の展示会で見た藤島武二の「蝶」に感銘を受け
画家を志します。
そして、藤島武二が指導していた
「白馬会駒込研究所」に入りデッサンを学びました。
やがて24歳のときに東京美術学校金工科を卒業し、
黒田清輝に勧められて西洋画科に転入しましたが
後に中退しています。
そして1910年の第4回文展には「魚河岸」が初入選し
1914年に出品した「人ごみ」が銅牌三等賞を受賞、
さらに同年、第8回文展では「曇り日」が
褒状を受けました。
その後、1916年に吉野芳と結婚、
日暮里谷中本町にアトリエを構えます。
1919年から1925年までは、各地に写生旅行に赴き、
展覧会などへの出品は行いませんでしたが
30代後半からは田園調布にアトリエを構えて
制作活動の拠点としました。
やがて1930年の第11回帝展に
「獺祭図」を出品して特選を受賞し、
1933年には帝展の審査員を務めます。
その後は金沢美術工芸大学教授、
東京芸術大学教授を務め
翌年には光国会評議員となりました。
また、50歳のときに文展に出品した「嬋娟」は
政府買上げとなり、以降も各美術展で受賞、
1959年には日本芸術院会員となっています。
そして1965年、78歳で文化勲章、
そして文化功労者として選出されました。
代表作に「春雪」、「冬の虹」などがあります。
小糸源太郎の当初の作品は緻密でありながら
自然な客観描写を用いた
印象派の影響を受けた画風でしたが、
後に独自の自然観を基に写実的な近代的風景画へと
傾倒していきました。
戦後の風景画は、小糸源太郎自身が
四季の移り変わりの中で、
田園や都市の景観を通して発見した季節感を
独自の表現で表現しています。
描かれている風景は日常的な景色が多く、
観る人にも親近感を持たせる風合いに表現されています。
小糸源太郎は潮流的な芸術運動に流されず、
情緒的な日本の風土景色や風物を、油彩表現に
独自の表現を加味してその画風を確立しています。
それらの作品は油彩の特質と、
日本人の芸術としての独自性、という
近代日本洋画における2つの使命を継承し
具現した洋画家として高い評価を得ました。