―押絵画家から日本画家になった「河童の芋銭」―
小川芋銭は、現在の茨城県牛久市城中町で農業をしながら新聞や雑誌の押絵画や漫画を描きながら日本画家になり、中でもかっぱの絵を多く描いたので「河童の芋銭」と呼ばれました。
芋銭は常陸国牛久藩の大目付である小石川右衛門賢勝の長男として、1868年に現在の東京都港区赤坂溜池近くにあった牛久藩邸内で生まれましたが、3年後に廃藩置県により一家は牛久沼の湖畔に移り、農家となりました。
その後、芋銭は上京し、13歳の時には本多綿吉郎に師事して洋画を学び、中国絵画や南画へも興味を持ち、次第に独自の画風を身につけていきました。
1883年、芋銭は実家の農業を継ぐために牛久に戻り、現地で発刊されている「いはらき」新聞や「週刊平民新聞」、文芸誌などにも押絵や漫画を描き、1888年に「朝野新聞」の客員となりました。
当時は無名の芋銭でしたが1896年に茨城日報(現在の茨城新聞)に投稿した漫画が編集長の渡辺鼓堂の目に留まり、新聞に掲載され、世間に知られるきっかけとなりました。
芋銭は押絵や漫画の初画集「草汁漫画」を1908年に刊行したり、俳誌「ホトトギス」の押絵や表紙を描いたり、大阪や東京の三越デパートで漫画展を開きましたが満足していませんでした。
珊瑚会展に出品した「肉案」が横山大観に認められて日本美術院同人に推挙されました。
また、芋銭は「牛里」の号を用いて俳人としても活動し、野口雨情、山口暮烏や長塚節などとも交流がありました。
1923年には茨城美術展の顧問になり、晩年の1935年には帝国美術院参与となりましたが、1938年12月に70歳で牛久の自宅で亡くなりました。
牛久沼の湖畔で人生の大半を過ごした芋銭の絵画には、湖畔周辺の豊かな自然や農村の風景を主題にした絵が多く、水墨淡彩で俳画の雰囲気もあります。
芋銭は特に河童に興味があったので多くの河童の絵を描き、「河童の銭芋が芋銭の河童」と呼ばれるようになりました。
また、芋銭は「魑魅魍魎」や「水魅山妖」の妖怪の世界観を独自の画風で描きました。
芋銭は生まれつき体が弱く幻覚などにも悩まされていたので描かれた「魑魅魍魎」や「水魅山妖」の妖怪たちの世界観は、芋銭には見えていたのではないのでしょうか。
さらに松尾芭蕉にも憧れて各地を旅しながら農村風景や山水画なども描いた芋銭は、「仙境の河童」や「俗中の仙人」とも呼ばれていました。
一方、芋銭の作品の多くは贋作だったので、公的機関による芋銭の作品購入に際しては、しばしば公金による購入の正当性などで議論になることもあります。
芋銭が農業の傍ら新聞や雑誌の押絵や漫画の掲載から日本画家になれた背景には、妻「こう」の内助の功が大いにあります。
雅号である「芋銭」は、芋銭の絵でお芋が買えるくらいの銭になれば良いという無欲な芋銭の思いからつけられました。温厚で優しさに溢れ多くの人々から愛された芋銭の日本画は、芋銭が雅号に対する思いと同じように醜い欲を払拭して、気持ちを無欲にさせてくれる不思議な力を持っているのではないでしょうか。
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