
こんにちは。書道具や骨董品の買取を行っている買取専門店『くらや松山店』です。愛媛県で硯や印材、墨、筆などといった書道具の買取を希望される方は、一度『くらや松山店』で査定してみませんか?一見価値が分かりづらく、処分されてしまうことも多い書道具ですが、思わぬ高額査定が付けられる可能性も…。
さて、今回は書道具の買取についてのお話です。書道の歴史をはじめ、当店の買取エピソードなどを交えてご紹介していきたいと思います。書道具の売却を検討されているお客様は、是非ご一読ください。
小学校などで学ぶ機会がある〈習字〉は、言葉自体多くの人に馴染みがあるのではないでしょうか。一方で〈書道〉とは何か、じっくりと考える機会はなかなかありません。書道と習字は、筆に墨をつけて字を書くという点においては同じです。ところがこの二つには、大きな違いが存在します。
習字とは、その名の通り字を習うことです。お手本通りの正しい書き順で、バランスの取れた綺麗な文字を書くことを目的としています。実用的な習字に対し、書道は文字で美しさや個性を表現することを目的とした芸術です。
習字と書道の大きな違いは、自己表現があるかないか、というところにあります。書道という言葉が生まれたのは、飛鳥時代頃のこと。習字が誕生したのは室町時代になってからのことでした。
中国から漢字が伝来したことで始まった、日本の書道の歴史。現在の福岡市付近で出土した金印に〈漢委奴国王〉という文字が刻まれていたことから、漢字が伝わったのは弥生時代頃だと考えられています。
金印に刻まれているのは、篆書体(てんしょたい)と呼ばれる文字。垂直・水平・左右対称を特徴とした書体です。
飛鳥時代・奈良時代には、仏教伝来により写経が盛行します。写経とは、仏教の経典を書き写すこと。日本最古の書物ともいわれる聖徳太子の〈三経義疏〉(さんぎょうぎしょ)には、手書きの文字が残されています。
仏教の流布によりブームとなったのが、写経事業です。仏典全般の書写を行う〈写経所〉が設立されるなど、書道は益々の盛り上がりを見せていきました。
今からおよそ1300年前。奈良時代には、日本最古の歴史書といわれる〈日本書紀〉が編纂されました。日本書紀は、日本独自のかな文字〈万葉仮名〉が使われていることでも有名ですよね。
平安時代に入ると、嵯峨天皇・空海・橘逸勢の〈三筆〉とよばれる能書たちが登場します。空海は、〈弘法も筆のあやまり〉ということわざでも知られる弘法大師。中国の摸倣だけに留まらず、三筆は中国風を日本化する動きを見せました。
平安時代中期には、唐の衰退により遣唐使が廃止へ。そして、小野道風・藤原佐理・藤原行成の〈三蹟〉と呼ばれる能書家が現れます。彼らによって漢字は和様化され、和様書道の完成期を迎えたのでした。
平仮名が誕生したのもこの時代のこと。当時は平仮名のことを〈女手〉(おんなで)と呼んでいたのですが、漢字を学ぶことを禁じられていた女性が平仮名を用いていたことがその由来です。平仮名が女手であるのに対し、万葉仮名は〈男手〉と言います。
それまで学問を志すことが出来なかった女性たちでしたが、平仮名の誕生により爆発的に流行したのが和歌です。清少納言の〈枕草子〉や紫式部の〈源氏物語〉などは、この頃に誕生しました。
貴族の男女の間では和歌のやりとりが盛んに行われており、その内容や仮名の書きぶりで相手の評価を決めることもあったのだそうです。
平安時代末期になると、院政の開始と武家の台頭により、貴族社会は衰退の一途を辿ることに…。書においては、これまでの優美なものから個性的・意図的なものへと変わっていきます。
政権が公家から武家に移り変わった鎌倉時代。武家と僧侶が権力を振るい、日本では和様と並び禅様(墨跡)が盛行しました。禅様とは中国・宋代の書風で、従来の柔らかい線のものとは全く違う、伝統から解放された自由で剛健なものです。
世尊寺流、法性寺流、青蓮院流、持明院流などの流派が誕生した室町時代。中でも青蓮院流は、のちに江戸時代まで書道の中心的書風となる〈御家流〉と呼ばれ、庶民にも広く使用されるようになります。
書道の作品を芸術品として床の間に飾り、鑑賞する文化が生まれたのもこの時代のことでした。
戦国時代に書道は一時衰退を見せていましたが、安土桃山時代に入ると〈古筆〉(こひつ)が流行します。古筆とは、平安時代から鎌倉時代にかけて書かれた和様書道の名筆のことです。
豊臣秀吉らは古筆を茶室に装飾し鑑賞するようになり、その風潮は民間にも広まります。あまりの人気ぶりに、古筆の真贋を鑑定する古筆鑑定家も現れるほどでした。
一般庶民向けの教育機関・寺子屋が全国各地で設立された江戸時代。寺子屋の存在は、庶民層への書道の普及に一役買うこととなります。寺子屋で教えられていたのは、主に御家流でした。こうして御家流は全盛期とも言える時期を迎えます。
「御家流であらざれば書にして書にあらず」と言われるほど、江戸時代は圧倒的に和様が主流だったのです。
江戸幕府が滅び明治政府が樹立されると、それまで主流だった和様・御家流に代わり、唐様・菱湖流が用いられるようになりました。菱湖流の書風は、唐の儒家である欧陽詢の書法を取り入れたもの。これを最後に、平安時代から受け継がれてきた和様は衰退したのでした。
ところが、実用性の乏しかった菱湖流は10年ほどで凋落。その後は唐様〈六朝書道〉が最盛期を迎えました。六朝書道は中国・南北朝時代に北朝で発達した独自の楷書体です。現在の楷書の起源となった書体のひとつでもあります。
一時は衰退してしまったものの、御家流の人気は庶民の間で依然として根強いものでした。1890(明治23)年には〈難波津会〉(なにはづかい)が設立され、かな書道の基底が作られました。
難波津会は、華族や名家が秘蔵する名品を実査するために創設された組織です。三条梨堂、東久世竹亭、小杉榲邨、高崎正風、大口周魚、阪正臣、小野鵞堂など、錚々たるメンバーが名を連ねています。彼らによって平安時代の仮名の研究が成され、明治時代以降も和様の書は仮名を中心に発展を見せていったのでした。
最後に、『くらや松山店』で実際にあった書道具の買取エピソードをご紹介しましょう。当店のチラシを見たというお客様から、出張買取に関するお問い合わせをいただきました。ご依頼内容は、遺品整理で出てきた沢山の書道具の査定・買取でした。
書道具は墨で汚れているものも多く、当店へ相談されるまでは「価値なんて付かないだろう」と半ば諦めかけていたのだそう。「なかなか手を付けられなくて、箱に入ってるものはこのまま処分しようかと考えていた」とお話しされていました。
『くらや松山店』の鑑定士が箱の中を確認すると、そこには数々の硯、墨、印材、文鎮が…。お客様が仰っていた通り、墨で真っ黒になっているものもありました。
ひとつひとつ丁寧に確認していくと、箱の中に中国の硯や半紙が眠っているのを発見。中国の書道具は特に人気が高く、高価買取が期待できます。お客様も「中国のものなんてあったんですか?」と驚きのご様子でした。
お品物を全て把握しきれていなかったようで、鑑定士が一緒にお品物を見ながら査定を行いました。殊更遺品整理の買取においては、持ち主であった方以外にその正しい価値を知っているという人はそう多くないものです。
『くらや松山店』では、ただ査定額をお客様へお伝えするのではなく、そのお品物の歴史的背景や高価買取の理由なども併せてお伝えするようにしています。なぜ希少価値が高いのか、どのような需要があるのか、些細なことでも遠慮なくご質問ください。
書道にあまり馴染みのない方の場合、硯や筆、墨などは分かっても、あまり目にする機会のない硯屏や水滴、印材、筆筒などといったものは、「一体何に使う道具なの?」とお困りの方も多いでしょう。
今回のお客様のように、汚れが見られたり古くて価値の分からない書道具の処分に悩まれている方は、お気軽に『くらや今治店』へご連絡ください。ご自身で無理にお手入れは行わなくても大丈夫です。そのままの状態で鑑定士へお見せください。
「何に使う道具なのか分からない」「墨で真っ黒に汚れているから…」と、そのまま書道具を捨ててしまう方は非常に多くいらっしゃいます。使いかけのものでも、書道具には思わぬ価値が付けられる可能性も。廃棄してしまう前に、その正しい価値が分かる鑑定士へご相談ください。
『くらや松山店』には、書道具に関する知識と買取経験が豊富なプロの鑑定士が在籍しております。良質な販売経路を駆使し高価買取を実現しますので、売却を検討されている方は一度お問合せください。
査定・相談・出張費は全て無料です。お客様のご来店・お電話を、心よりお待ちしております。
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