
掛軸(かけじく)は、日本を含む東アジアにおいて古くから伝わる絵画・書の表現形式のひとつであり、長い歴史の中で宗教・芸術・生活文化の中に深く根付いてきました。掛軸の発祥から、江戸時代・戦後・現代に至るまでの用途や位置づけの変遷を解説します。
掛軸の起源は中国にさかのぼります。もともとは仏教経典や図像を記した巻物(巻子装)が原型であり、それが時代とともに「掛けて鑑賞する」形式、すなわち縦長の軸物へと進化していきました。中国・唐代(7~10世紀)ごろには、現在の掛軸のような形式が確立され、仏教画や書の展示形式として使用されるようになります。
日本には奈良時代(8世紀)に仏教の伝来とともに掛軸形式も伝わり、当初は主に寺院における仏画や経典の掲示物として用いられました。その後、平安・鎌倉時代には、日本独自の仏教美術や書の表現とともに発展し、茶道・禅宗文化などと結びついて広く普及します。
江戸時代(1603~1868年)は、掛軸文化が大きく花開いた時代でした。この時期には庶民階級の生活文化が成熟し、美術が武士や寺社のみならず、町人文化にも広まったのです。掛軸は以下のような多様な用途で用いられました。
江戸時代の住宅建築では「床の間」が設けられるようになり、掛軸はその中心的な装飾として欠かせない存在となりました。床の間には、季節や行事に応じた掛軸が掛けられ、花や器とともに和の美意識を演出しました。掛軸には四季折々の風景、漢詩、仏画などが用いられ、客人に対しても持ち主の教養や趣味を伝える手段となりました。
禅宗の僧侶による墨蹟(筆跡)や一行書(簡潔な禅語)が掛軸として好まれ、茶室などにも飾られました。茶道においては、掛軸は亭主がその日の趣向や客への想いを示す重要な要素であり、茶席の精神的核とも言えるものでした。
正月には七福神や松竹梅、端午の節句には武者絵、桃の節句には雛人形の掛軸が飾られ、家庭行事に彩りを添えました。掛軸は生活の中に根ざした季節感や伝統を伝える装飾物でもあったのです。
第二次世界大戦後、日本の生活様式は大きく西洋化し、畳や床の間のある和室が減少したことにより、掛軸の使用も次第に限定的になっていきました。
戦後の高度経済成長期には、古美術や骨董品に対する関心が高まり、掛軸もその対象となりました。特に有名な書家や画家による作品はコレクションの対象となり、古書画市場で高値で取引されるようになります。掛軸は日常の装飾品というより、美術的価値を評価される「鑑賞品」としての性格が強まりました。
仏壇や法事の場では、戦後も引き続き掛軸が使われ続けました。特に仏像や祖先を描いた掛軸(御本尊や先祖供養画)は、日常的に飾られるというより、宗教行事の際に必要に応じて掛け替える形で使用されました。
茶道・華道・書道などの伝統芸道では、戦後も掛軸は教育・実践の重要な道具でした。教室や道場では、精神性を高めるために禅語や名筆の掛軸が用いられ、精神性と美意識を体得する手助けとなっていました。
現代(令和時代)においては、掛軸は伝統的な価値を保ちながらも、新たな形で再評価・再活用されつつあります。
近年、和モダンなインテリアへの関心が高まる中で、掛軸も「和のアクセント」として見直されています。伝統的な床の間のない住宅でも、壁に掛けるアート作品として取り入れられることがあり、従来の宗教的・儀礼的な意味合いを超えて、現代アートと融合した掛軸も登場しています。
海外では、日本文化への関心の高まりとともに、掛軸は日本独自のアートとして注目されています。特に禅画や墨蹟はミニマルな美しさが評価され、ミュージアム展示や海外オークションでも一定の市場を持ち続けています。
現代の書家や画家が、掛軸形式を用いた新作を制作する動きもあります。従来の和紙や裂地を用いながら、現代的な題材や意匠を加えた作品が登場しており、掛軸という形式の中に新たな命が吹き込まれています。
掛軸は、仏教美術に由来し、江戸時代には生活文化の中に深く浸透、戦後は装飾品・美術品としての価値が高まり、現代では再評価の動きが見られる、非常に奥深い日本文化の象徴です。
用途は時代とともに変化しつつも、その根底にあるのは「精神性の表現」や「季節感の演出」といった日本人の美意識です。掛軸は、単なる装飾ではなく、人と空間、そして時間をつなぐ装置として、これからも静かにその存在感を放ち続けるでしょう。
掛軸に描かれた日本画は、日本文化において非常に重要な芸術表現のひとつであり、時代ごとにその立ち位置や役割、用途は大きく変化してきました。江戸時代には生活文化や精神性を支える装飾・教養の手段として重視され、明治時代には国家意識と芸術の近代化の中で再編され、現代においては伝統文化と現代アートの融合という文脈で新たな展開を見せています。
江戸時代(1603–1868年)は、平和な社会が続き、町人文化や武家文化が花開いた時代です。この安定した社会状況の中で、日本画は大衆にも広まり、掛軸という形式で多様な表現が展開されました。
江戸時代には住宅に「床の間」が設けられるようになり、そこに掛軸を飾ることが一般的となりました。床の間は客間の中心であり、そこに飾られる掛軸は、家主の教養や美意識を象徴する重要な要素でした。日本画の掛軸は、四季折々の風景、花鳥、動物、漢詩などを主題とし、訪れた客に対してもてなしの気持ちや季節感を伝える手段となっていました。
掛軸の日本画は、単なる装飾にとどまらず、儒教や仏教、道教などの思想を背景とした精神的な価値をもっていました。特に禅宗の影響を受けた一行書と日本画を組み合わせた掛軸は、茶道や寺院空間において精神修養や哲学的な思索を促すものとして重視されました。
江戸時代にはさまざまな画派が活躍しました。狩野派は武家や寺社に支持され、格調高い画風を展開。円山応挙に代表される円山派や、写実を追求した四条派は、庶民にも受け入れられ、自然観察に基づく優れた風景画や動植物画を掛軸で表現しました。また、伊藤若冲、与謝蕪村など個性派の画家も人気を博し、芸術性の高い掛軸作品を多く残しました。
明治時代(1868–1912年)は、日本が西洋文明を取り入れ、近代国家へと急激に変化した時期です。絵画の世界でも油彩画や洋画が導入され、日本画の立場は大きく揺らぎました。
それまで「画」として特別に分類されていなかった伝統的な絵画は、明治初期に西洋画(油彩画)との対比として「日本画」として再定義されました。この際、日本画の表現媒体として掛軸は引き続き主要な形式でありつづけましたが、「美術」としての価値が強調されるようになり、鑑賞用の美術品としての性格が強まりました。
政府は伝統文化の保護と振興のために、狩野芳崖や橋本雅邦らを「帝室技芸員」に任命し、日本画の近代化と教育を進めました。彼らの作品は掛軸形式で制作され、美術展で発表されるとともに宮内庁や官庁などで収蔵されました。
明治後期になると、美術商による掛軸の流通や展示会が盛んになり、掛軸は家庭の装飾品から、美術品としての売買対象へとシフトしていきます。多くの画家が注文を受けて掛軸を制作し、美術愛好家や富裕層の間で蒐集の対象となっていきました。
戦後の高度経済成長以降、生活様式の洋風化が進み、和室や床の間が減少する中で、掛軸の存在感は一時的に薄れました。しかし近年では、伝統文化の見直しやインテリアとしての再活用、さらには現代アートとの融合などにより、掛軸日本画は新たな価値を得つつあります。
昭和後期以降、古美術・骨董品への関心が高まり、特に江戸・明治期の掛軸日本画は蒐集家や美術商の間で人気の対象となっています。著名画家による作品や保存状態の良好なものは、美術館収蔵やオークションでも高値で取引されることがあります。
現代の和風建築や「和モダン」インテリアの一環として、掛軸日本画が再注目されています。伝統的な床の間がなくても、壁にフックを設けて掛けたり、スタンドに置いて飾るなど、新しい飾り方が生まれています。現代のライフスタイルに合わせた軽量・省スペースの掛軸作品も制作されており、若い世代にも受け入れられつつあります。
現代の日本画家の中には、伝統的な技法(岩絵具、和紙、墨)を守りながらも、現代的な題材や構成を取り入れた作品を掛軸で発表する例も見られます。たとえば、日常風景や抽象表現、社会問題を主題にした現代日本画が、掛軸という伝統形式の中で新たな命を得ているのです。
茶道・華道・書道などの伝統芸道の世界では、今も掛軸日本画が重要な学習・実践のツールとなっています。特に茶席では、禅語と共に描かれた掛軸が精神的な中心として機能し、日本文化の奥深さを伝え続けています。
掛軸日本画は、単なる古美術ではなく、時代ごとの思想や生活、芸術観を反映して進化してきた表現形式です。江戸時代には生活文化の中心として、明治時代には「日本画」として再定義され、現代ではアート・文化・インテリアとして再評価されています。その歴史と柔軟な可能性は、これからの世代にとっても重要な文化資産であり続けるでしょう。
江戸時代から戦前までの佐賀・長崎に関わりのある掛軸形式の日本画を描いた画家を紹介します。長崎は当時、唯一の国際港として中国やオランダとの交流があり、中国人画家やその影響を受けた日本人画家が多く活躍しました。佐賀もまた文化・教育に熱心な藩であり、多くの文人画家・禅僧画家を輩出しました。
肥前出身の禅僧で画僧。
達磨や布袋、動物、山水を描く。掛軸に多く用いられた墨画・禅画が特徴。
山水や花鳥の掛軸作品が現存。
墨画・書に秀で、禅画や漢詩画の掛軸作品を多数制作。
長崎で活躍した文人画家。
山水画・人物画などを手がけ、日本の南画家に強い影響を与える。
肥前出身の画家で、京都の円山応挙に先んじて写生画を展開。
花鳥・人物・山水の掛軸を多く残す。藩主鍋島家に仕える。
広瀬淡窓(ひろせ たんそう, 1782–1856)
日田の儒学者・南画家だが、佐賀・長崎とも交流あり。
詩文とともに山水・人物・動物を描いた掛軸作品多数。画賛の名手。
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